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霞の歴史

1927
(昭和2)年
12
發智庄平銅像除幕式にて、發智庄平所有地へのゴルフ場誘致の機運が生じた。
1928
(昭和3)年
1
藤田欽哉が初めて現地を訪問して發智庄平と会い、候補地がゴルフ場建設に適した土地であることを確認した。
1929
(昭和4)年
1
霞ヶ関カンツリー倶楽部が設立され、2月に東コースの測量を開始した。(設計:藤田欽哉ほか創設メンバー4名)
10 東コースが完成し、10月6日に開場式を挙行した(チャーターメンバー310名)。
1930
(昭和5)年
10
日本初のゴルフクラブ会報Fairway誌が発刊された。
1931
(昭和6)年
2
前年末に初めて霞ヶ関を訪問したC.H.アリソンが東コースの改造を提案し、助手ジョージ・ペングレースによる改造工事に着手した。
3 旧西コースの測量を開始。(設計:藤田欽哉、助手:井上誠一)
1932
(昭和7)年
6
旧西コースの開場式を挙行。
8 猛暑により旧西コースグリーン(ベント)が悪化、1933年11月から第2グリーンの建設工事を開始。
1933
(昭和8)年
10
第7回全日本オープン選手権開催(東コース、優勝:中村兼吉)。
1936
(昭和11)年
2
大雪により東コースグリーン(コーライ)が悪化、1937年8月から第2グリーン建設工事を開始。
1937
(昭和12)年
10
ジーン・サラゼンが来場。
1940
(昭和15)年
7
内務省の指示により、会報Fairway誌を休刊。
9
日本ゴルフ協会からゴルフ自粛通達。
1943
(昭和18)年
4
敷地内の開墾による食糧増産への協力要請を受ける。
1944
(昭和19)年
9
航空資材軍用疎開所として西コースの一部が徴用される。
12 日本鋼管農場に東コースの一部を売却。(4番~8番、12番~15番)
1945
(昭和20)年
4
営業停止して閉鎖。
9 終戦1ヶ月後に米国第5空軍により接収される。(以後6年7カ月接収が続く)

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