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読み物「霞の歴史」

① 發智庄平のこと

 霞ヶ関カンツリー倶楽部が,ここ笠幡の地に誕生することになった最初のきっかけは,土地の提供者となり,ゴルフ場建設の推進者となる發智庄平の銅像除幕式が,現在の西コースの野戸池の畔で昭和2年5月に盛大に執り行われたことでした。これに参列した生糸貿易事業のパートナーだった星野正三郎が周囲の風景,地形を見て,發智庄平にこの地でのゴルフ場建設を勧めたのがそもそもの発端でした。

さて,發智庄平とはいかなる人で,どうして自らの銅像の除幕式ということに至ったのでしょうか? 先ずは,發智庄平の生い立ちと活動のあとを辿ってみることとします。

 發智家は,鎌倉時代後期第9代執権北条貞時から,御家人を一掃した霜月騒動(1285年)での功により与えられた信濃国佐久郡発地の郷(現在の長野県北佐久郡軽井沢町南部の発地地区)からほどなくして鎌倉街道を南下し,現在の笠幡地区を一族で開拓して移り住んだ豪族でした。代々發地太郎と称し,江戸時代中期に發地を發智に改めましたが,發智庄平は約700年続く,その27代目の当主でした。

和服でプレーする發智庄平
ゴルフコース建設前の土地の様子

 現在の入間市黒須地区の名主であった繁田家に元治元年(1864)に生まれた庄平は, 7歳のとき,母方の実家であった笠幡の名主發智家の26代發智七郎と養子縁組みします。母方の祖父であった25代發智光正は,幕末苗字帯刀御免の町年寄格で明治初年には近傍七カ村の頭取名主となり,殖産・教育に熱心で公に尽くす名望家でした。庄平は学制の発布により新設された黒須学校などを経て群馬県第一小学厩橋学校を明治10年に卒業したあと,東京に出て和漢・算術を学び,特に高橋是清が校長をしていた共立学校(現在の開成中学校)では英語を習得しました。

 郷土の発展には人材の育成が大事と教育者になる志をたてて埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)に入学し,明治19年に高等師範科の第1回の卒業生となりました。そして明治20年に黒須高等小学校(現在の入間市立豊岡小学校5,6年・豊岡中学校1,2年)の初代校長として赴任して明治31年まで11年間教育者としての活動が続きます。

 着任した当初、生徒数は60人ほどでしたが,庄平の熱誠と徳望により,郷民も心を動かされ,遂に400名を数えるようになったといいます(高等小学校は義務教育ではなかった)。教育の方法は独特で,高等小学校には用務員を置かず,学校の仕事はすべて生徒にさせ,暗誦の学問ではなく,世間に出てすぐに役立つ実用の学問を教えることをモットーにしたといいます。学校教員の修養にも熱心で,黒須教育義会なる教員の勉強会を組織し,東京から講師を呼んできたりして相互啓発に努めたようです。

 校長時代の逸話の一つとして,卒業生の東京への修学旅行では,笠幡の自宅に全員を泊まらせ,翌早朝中山道鉄道上尾駅まで20kmを歩いて行き(当時川越に鉄道はなかった),上野駅前の旅館を定宿にしましたが,その旅行費用は全て庄平が負担したといいます。

 また,有為の人材を新設された川越中学校に進学させるための育英資金制度を創設し,多くの給費生を送り出しました。

 明治33年には渋沢栄一翁を顧問に招いて黒須銀行(のち武州銀行を経て埼玉銀行へ)を設立し,頭取を勤めて郷民の貯蓄奨励と中小企業の育成を進め,また霞ヶ関青年道徳研究会を作って青年の啓蒙に努めました。明治34年には県会の川越町遊郭設置に反対し,17カ村5500人余の署名を集め,県会に意見を述べてその提案を取り消させました。

 農業分野では,水害予防・土地改良・二毛作田の推進,山林の植栽,製茶栽培など農業振興に尽くし,明治40年には發智農会を設立し,小作人の保護育成・救済を図りました。

 大正3年には霞ヶ関村の村長(12年間)を引き受け,村民の生活の安定・向上に意を尽くしました。また,大正7年には埼玉県下の薄幸な孤児を救済する目的で設立された埼玉育児院の院長となり,昭和3年に所有地を寄贈して笠幡に移転させるなど,社会事業にも力を尽くしました。そして,大正末,發智校長の薫陶を受けた黒須高等小学校の卒業生たちが社会に出て活躍し出したころ,既に62歳になっていた庄平のために,高等小学校時代の大恩に報い,恩師の偉績を不朽に伝えようと教え子たちが中心になって61人の発起人により謝恩基金が広く集められ,記念の銅製寿像を建立することになったのです。

銅像の除幕式が盛大に行われました

その場所は,庄平の希望で当時霞ヶ関別天地と呼ばれていた小公園の野戸池の畔となりました。銅像は昭和2年4月に完成し,5月29日に除幕式が行われたのでした。

② 發智庄平と藤田欽哉と程ヶ谷C.C.有志の人々

 自らの銅像の除幕式の後で,星野正三郎からゴルフ場建設のアイデアを聞かされた發智庄平は,それまでゴルフのゴの字も知りませんでした。しかし,その後半年かけて,勉強・研究し,スコットランド発祥のこの紳士のスポーツがいかなるものかを知りました。若い頃,共立学校で学んだ英語は,ゴルフを理解するのに役立ったことでしょう。ゴルフ精神が日本古来の武士道にも共通し,スポーツ精神最高のものであると理解をして,地域の発展には素晴らしいことだと思うに至ったのでしょう。

 星野正三郎は,軽井沢の星野温泉旅館(現在の星野リゾート)の創業者星野国次の弟で,生家の長野県佐久市の生糸業を継ぎ,大正8年發智庄平と共に横浜に日米生糸株式会社を立ち上げました。しかし,関東大震災(大正12年)により船積み待ちの生糸が倉庫もろとも焼失して致命的な打撃を受けてしまい,星野のゴルフ場開発の提案は,その挽回策としての側面もあったようです。

 發智庄平からゴルフ場建設に前向きな依頼を受けた星野は,昭和3年1月8日頃,同じ大森に住む旧知の間柄で,新たなゴルフ倶楽部創設に強い関心を持っていた藤田欽哉に相談します。

 藤田は1月11日,直ちに単身現地に赴いて,笠幡の屋敷の奥座敷で,發智庄平と初めて会いますが,親子ほど年齢が離れていたにも拘わらず,10年の知己の如き心安さと親しさとを感じて,種々語り合ったとあります。

藤田欽哉と發智庄平

 藤田欽哉は,三菱財閥創立者岩崎弥太郎の従弟で三菱合資初代銀行部長として三菱銀行の基礎を築いた豊川良平の甥として,明治22年駒込に生まれ,当時岩崎弥太郎家の別邸であった六義園邸内で成年まで育ち,大名庭園の自然を活かした景観美がいかなるものかよく理解していたと言われています。明治43年早稲田大学を卒業して,将来の首脳候補として三菱合資銀行部に入社しましたが, 3年で退職,大正3年,米国オハイオ州マイアミ大学,次いでコロンビア大学に留学します。一旦帰国後,大正6年,大手生糸貿易会社・原合名のニューヨーク支店開設に際して営業部長として再渡米します。このときに渡米6回の星野正三郎と知り合い親しくなります。

 当時ニューヨークでは生糸貿易関係者でゴルフが盛んに行われ,藤田は,早大や米国の大学在学中にテニスと野球で鍛えた身体でゴルフの腕をめきめきとあげ,以後ゴルフへ並々ならぬ情熱を傾けることとなりました。大正10年帰国後は東京ゴルフ倶楽部と翌年に創立された程ヶ谷カントリー倶楽部に入会しました。そして,門地や肩書に依らない人物本意の,会員絶対平等の理想のゴルフ倶楽部をつくりたいという考えを持つ、程ヶ谷カントリー倶楽部の小グループの1人となりました。發智庄平にゴルフ場建設予定地を案内された藤田は,悠々たる男性的平野の地勢とそのほとんどが發智1人の所有地であることに惚れ込んでしまいました。そして,東京ゴルフ倶楽部,程ヶ谷カントリー倶楽部の私淑する先輩,日本ゴルフ会の先覚者,井上信に相談し,現地を見てもらうことになりました。その結果は,地形がフラットすぎる,東京から遠距離で交通が不便とのことでありました。

 当時駒沢からの移転先を検討していた東京ゴルフ倶楽部にも相談しましたが,やはり交通が不便ということでした。当時は池袋から東上線(電車ではなく旧式の汽車)で的場(現霞ヶ関)駅まで2時間近くかかりました。

 また,星野正三郎は,土地の提供者となる投資者の立場を尊重して,株式会社組織のゴルフ倶楽部結成を提案しましたが,藤田欽哉は“土地会社的存在に堕する恐れを嫌い,純潔なゴルフスポーツ倶楽部の創設のため社団法人組織”とすることを強く主張しました。遠距離であることに加えて,この組織体制の問題もあり,ほぼ一年進展がなく,この話は立ち消えになったと思われました。

 その年の暮れになって,突然藤田の大森の自宅に發智庄平の意を体して長男の太郎が来訪し,倶楽部組織について藤田の構想を全面的に承認し,9ホール建設に要する最小限の建設費として3万円を用立てるから,例の土地にゴルフ場を建設してもらいたいと伝えたのでした。

發智庄平の長男、太郎

 藤田は直ちに,井上信,石井光次郎,清水揚之助各氏に相談し,すでに同志にして昵懇であった程ヶ谷カントリー倶楽部紅葉会幹部の田中次郎,山本栄男,鹿島精一の三長老の賛意と援助を受ける了解ができ,急激に新たなゴルフ場建設の話が進んだのでした。

 そして,發智家の申し出た資金で,12月28日には,程ヶ谷カントリー倶楽部の加沼豊支配人を介して,芝2万坪買い入れの予約をしたのでした。翌昭和4年の正月,發智庄平を訪ねた藤田は,万一会員が予定どおり集まらず倶楽部の成立が失敗した場合,植えた芝で芝屋を始めるご覚悟がおありか,と確認したところ,庄平は,そのときは,そのように決心する外ありません,と応えたのでした。

創設者たち(左から清水揚之助、發智庄平、發智太郎、井上信、牛島正巳、藤田欽哉)

 田中次郎,山本栄男,鹿島精一の三長老はただちに設立発起人総会の準備に入りました。ゴルフの一般化および倶楽部生活の家庭化を標榜する倶楽部の創立趣意書文案が山本栄男により起草されました。コースおよび倶楽部ハウス建設の方針は質素を第一義として,特にビギナーのためのコースとする建前から極く平易なグリーンを造り,経費を極度に節約するという考え方で建設の準備が進みました。

設立趣意書

 同年2月1日には地鎮祭も行われ,鹿島組の技師による測量も始まりました。2月18日には,設立発起人総会が開催され,社団法人組織をもって霞ヶ関カンツリー倶楽部と名称することに定まり,募集会員200名,入会金200円,年会費60円と決められました。発起人40人がひとり5人集めてくれば,目標は達成できるという考えでした。

東11番の測量作業

 そして, 2月28日にはレイアウト合議会が開催され,アウト・インのレイアウト方針が井上信,赤星四郎,藤田欽哉のアイデアを中心に定められ,井上信,赤星四郎,石井光次郎,清水揚之助,藤田欽哉5名による各ホールの設計・施行の責任分担が決められました。

当時の工事風景

 工事は發智庄平の手配による近隣村人総出の人海戦術でしたが,急ピッチで進みました。發智家の屋敷が事実上の建設本部で,工事総括責任者であった藤田欽哉は,發智家に泊まることもしばしばだったといいます。3月上旬頃,やはり奥の客間に泊まってうつらうつらしたころ,暗闇のなか枕元の障子が静かに開けられ,低い声がしました。「庄平の母ですが,今度の工事については夜もおちおち眠れぬほど心配しています。ゴルフとかいう遊びごとのために,あの祖先伝来の山林を毎日幾百の村民を使って,山の樹をどしどし切り倒し,その後から畑にもならない荒仕事を見るにつけて,何が始まるのか全く驚くより恐ろしくなりました。この年寄の私は發智家の年長者として,万が一過ちが起こりましたら,第一に祖先に対し,また親戚や村人に対して顔向けができません。老い先短くいつ死ぬか分かりません私に,ゴルフの仕事がどうなるのか,本当のところを打ち明けて話していただけませんでしょうか?」。これに対し,藤田は自らの信ずる計画と抱負について小半時お話しして母上殿には安心してもらったと,のちに語っています。

③ 初代理事長田中次郎と顧問井上信

 昭和4年5月22日の創立総会までには,入会希望者は果たして予定の200名を超え,財政的な裏付けもつけられつつありました。

 創立総会では定款承認のほか,役員選任を行い,理事には,石井光次郎,發智太郎,星野正三郎,鹿島精一,河合鉄二,田中次郎,山口喜三郎,山本栄男,藤田欽哉,清水揚之助の10名,監事に友野欽一,加藤恭平2名を選出しました。初代理事長には発起人代表でもあった田中次郎,副理事長に山本栄男,名誉書記に藤田欽哉,名誉会計に河合鉄二が就任しました。

写真:田中次郎、会報に掲載された田中のイラスト

 初代理事長に推挙された田中次郎は,明治6年佐賀県生まれ,明治31年東京帝大法学部を卒業し第5回高等文官試験に合格して逓信省に入省し,京城(ソウル)郵便局長などを経て通信局長を最後に退官し,日本石油(株)専務取締役などを務めましたが,ゴルフを始めたのは,50歳を過ぎてからでした。

 大正14年入会した程ヶ谷C.C.では,初心者は意地の悪い小舅の多いところに嫁に行ったかのように,コースの片隅で肩身を狭くして先達者の顔色を見ながらプレーしている状況でした。これを見た田中は持前の負けじ魂で,会員皆が平等の我らの倶楽部,我らのコースに相応しい空気を作ろうと,初心者の集団「紅葉会」を発企して,ルール・エチケットはお互い守りましょう,技量はお互いに磨きましょう,懇親を重ねて和気藹々裏にすべてを行動しましょう,という「モットー」を掲げて旗上げしました。

 同志7,8名で始めた紅葉会は,プライベートトーナメントなどを催しゴルフをエンジョイすることに努めた結果,同感の人々を多く得て,田中の人柄もあってか,入会希望者があとを絶ちませんでした。

 倶楽部では党中党を作るに似てよろしからずとの議もありましたが,田中は会の性質をよく説明して快き諒解を得て,会の懇親会には倶楽部の幹部および先達を招待し,ゴルフ道の精神,エチケットおよびマナーの説明など初心者に最も必要,かつ有益なる講話を願う場合など数々ありました。それで程ヶ谷の入会者は続々紅葉会に入会し,倶楽部理事者も初心者はまず紅葉会に入会して訓練することを喜ぶようになりました。

 会員はますます増加し130名にも達するようになり,シングル・プレーヤーも続々誕生して,当時紅葉会の名は関東・関西のゴルファーの羨望の的となるまでになりました。

 田中次郎は,ゴルフのように高尚にして健康に最も適するスポーツを今一層大衆的に普及したいという考えを強く持つようになり,会員皆が平等で,家族的で気持ちのよい理想の倶楽部をつくりたいと考えていたところに,藤田欽哉,星野正三郎から發智庄平提案の霞ヶ関村のゴルフ場建設の相談があったわけです。田中はこれに直ちに賛成した結果,紅葉会の会員が霞ヶ関カンツリー倶楽部創立の基礎になったことは自然の流れでした。

 さて, 200を超す霞ヶ関カンツリー倶楽部への入会者はゴルフ初心者が大多数を占め,お互い顔つなぎがないので,ゴルフ場開場までに会員同志の懇親をはかることが重要視され, 3回にわたって会員親睦大会が開催されました。そして,これとは別にこの倶楽部を将来最も気持ちの良い立派な理想のゴルフ倶楽部にしたいと考えていた田中次郎から依頼を受けた顧問井上信は,初心者が多く占める入会者のために,暑い盛りの7月に毎週4回にわたって,倶楽部ライフに必要な心得,ゴルフ技術常識について連続長講演を行ったのでした。

井上信

 井上信は,明治18年生まれ,38年に東京高等商業学校を卒業して,三井物産ニューヨーク支店在勤中25歳でゴルフを覚え,ニューヨーク近郊の複数の米英人経営のクラブに入会して日本人として最も古くクラブライフを経験し,そのクラブ選手権者ともなり,帰国後は大正7年東京ゴルフ倶楽部で行われた日本アマチュアゴルフ選手権で最初の日本人優勝者となりました。当時既に程ヶ谷カントリー倶楽部のキャプテンそして日本ゴルフ界の指導者でしたが,霞ヶ関カンツリー倶楽部の設立趣旨に大いに賛同し創設者の1人となりました。

 連続講演の結果は開場後会員のゴルフ道発揚の基礎になり,倶楽部ライフの上に如実に示されることとなりました。このことは,開場後,倶楽部の雰囲気が非常によいと評判になった所以でもあろうと思われます。エチケットやスイングの技術論はここでは割愛しますが,倶楽部ライフの要諦について語った部分を以下に抜き書きします。

 「…数あるゴルフ倶楽部のなかで,また多数あるゴルファーのなかで,霞ヶ関カンツリー倶楽部という一つの名の下に,私達が集合したことは,宿世の縁とでも申しますか,ともかくもこの倶楽部は各自が寄ってその一部一部を持ち合っているという意味で,興味を持っていただきたい。…
 Good fellowshipということは,つまり「気持ちの良い仲間」ということで,会員同士が何とも言えない愉快な,そして気持ちの良い仲間としてお付き合いできるということであります。それは,どういう風にしたら実現されるか? 何をおいても,それには会員相互の名前を知りたいと思います。
 早く名前を知る方法として,矢張り一緒にプレーするのが第一義だと思います。ゴルフを一緒にやるということがお互いの名前も知り,また進んではお互いの気持ちも知り得る最も良い手段であり,また近道であると私は信じております。
 ただ,good fellowshipということを高調するがために,ある特別の仲間同士だけでプレーするということは私は余り賛成しないのであります。…お互い多数のひととプレーをしようとお心掛けになっていただきたい。明けても暮れても同じ手合いでもってプレーするということは,技術の進歩の上にもまたゴルフの規則,作法などを守る点から見ても必ずしも良い方法とは申されません。
 倶楽部そのものが既に会員の集合団すなわち党でありますから,その中にまた敢えて集合団を作るというようなことはないように,いわゆる党中党を作るということはゴルフ倶楽部では最も歓迎せぬことでありまして,理事者というものが倶楽部全会員の利益のために何かと経営の任にあたっておりますから,かかることがあっては理事者としてもまた他の会員としても,決して愉快なことではありません。…」

 井上信の連続講演の間にも,コースの建設工事は順調に進み,倶楽部ハウスも清水組により7月には着工しましたが,少ない予算のなかで,發智庄平が現場監督を買って出て,大いに工夫が凝らされることとなり, 240坪の簡素な家屋ができあがりつつありました。

建設中の初代倶楽部ハウス

 10月の開場式が迫ってきた初秋のころ,藤田欽哉は發智庄平から村に思わぬことが起こって困っていると告げられました。それは,ゴルフ場建設反対と小学校児童のキャディー出勤禁止の運動が起こったことでした。

 在郷軍人と青年団の有志が結集し,純朴なる村の風習が破壊されるというのが反対の趣旨でした。これを聞いた藤田は好機到来とばかり,霞ヶ関小学校にキャディー対象年齢の児童と教員全員,在郷軍人および青年団全員の集合を求めて,一夕数時間の長広舌をふるい,疑惑質疑に応答し,納得してもらい,そして協力を求めたのでした。その後の地元の人たちと倶楽部の固い信頼関係はここから始まったのでした。

④ 会員章と三箴

 発起人の総意により,会員募集には,その人柄の監査に最大なる注意を払うべしという申し合わせがあり,面接の責任者は藤田欽哉が主として担いました(三井系は井上信)が,入会者は開場前の昭和4年9月末で310名となり,以後チャーターメンバーと呼ばれました。

開場式を迎える倶楽部ハウス、完成した東コース(2番)

 昭和4年の夏は干天続きで,コース建設・倶楽部ハウス建築工事は快調に進み,関係者の大変な努力で起工からわずか8カ月という短期間で,10月6日の開場日を迎えることができました。当日は池袋から東武の特別列車が仕立てられ,開場式では倶楽部から發智庄平に謝表と大銀盃が贈られ,朝香宮・同妃殿下による始球式に続いて開場記念競技会が開催されました。会場は,ゴルフ場やゴルフプレーを初めてみる地域村民で大賑わいを呈しました。また,これに先立つ10月1日には,倶楽部から藤田欽哉に謝辞と記念品(金千円)が贈呈されました。

 家族的な倶楽部を作ろう,ということが趣意書など当初から標榜されていましたが,これには二つの意味があり,もちろん会員同志は大家族的にということのほかに,会員の家族も楽しめる倶楽部にしたいということがありました。開場の1カ月後には,近くの畑で会員家族113名が参加して芋掘り会が開催されました。これは大変好評で,戦争が始まるまで毎年催され,さらに,翌年春にはテニスコート2面が設置され,用具類も備え付けられました。

芋掘り会の様子

 12月には初代支配人(主事)となる小宮小四郎が着任しました。彼は理事石井光次郎の紹介(神戸高等商業学校同窓)で,静岡県藤枝にて小宮公益財団を設立し,社会事業と窮民救済に尽瘁していましたが,単身赴任して倶楽部内に起臥し,事務の合間にキャディーの教育指導にも親身にあたり,彼らから父親のように敬愛されました。また地元民と倶楽部の接触を重視し,懇親会や映画会,村の集まりなどを通じて倶楽部と地元との交流を図りました。

近隣の人々を招いた新年宴会(昭和10年)

 昭和4,5年の初代理事長田中次郎の時代に始められ,今日まで続けられていることの中で,特筆すべきは,会員章の着用と三箴の励行とFairway誌の発行でしょう。

 会員章の着用は,会員相互の氏名を知り,親睦を速やかにするためで,会員章は三角長方形の倶楽部旗を型どり,中央に白字で氏名を縫い取った独特のものが作られました。当時の漫画像から類推するとかなり大きなものだったようです。今日,他倶楽部に例を見ない大判のフェルト製の会員章は,ここからきている訳で,視えるところに着用することが会則で定められています。

当時の会員章

 昭和5年6月の理事会に朝日新聞の鈴木文四郎の提案である「月刊時報」の発行が上程されましたが,保留となり,会員同志の倶楽部ライフに資するという目的がつけ加えられて,開場1周年の10月にFairway誌が誕生しました。日本で最初の倶楽部誌です。

 このとき,タイトルFairwayの横に「△倶楽部の会員同志は一家族の如く親しみ合って行きたい。△技術の上達よりも,ゴルフ・スピリットを第一に発揚したい。△リンクスはどこでも我が座敷の如く心得たい。」という,倶楽部の家訓とも言うべきモットー・三箴が掲げられました。

会報Fairway誌の創刊号、表紙に記載された三箴

 今日,この三箴は,「・倶楽部の会員同志は一家族の如く親しみ合い,信じあって行きたい。・技術よりも,フェアプレーのゴルフ・スピリットを第一に発揚したい。・コースはどこでも我が座敷の如く心得たい。」として,Fairway誌の目次の上段に掲げられています。

 田中次郎は病を得て,昭和6年に惜しまれて亡くなり,東コース1番のティーインググラウンド左前方,噴泉池畔にその業績を記念して「田中記念園」という庭園が造られましたが,「斯くこそありたし」という文章をFairway誌第2 号に遺されました。主要部分を以下に抜粋します。

田中次郎を記念した田中記念園写真

「“Fairway”の発刊・当倶楽部が万事につけ,先端を行くので何となく痛快である。この機関誌も会員相互が互譲親睦の精神発揚のためというのが第一義と考えられる。…スポーツマンシップの精神をどこまでも発揮せんことをお互いに励みたいのである。
 我を捨ててかたみに譲る心あらば これぞ誠のゴルファーなるらめ…我が倶楽部では精神の修養を重くみている。体育だけでは人間になれぬ。精神の上乗のものが入らねば上等の人間にはなれぬ。上等のスポーツマンにもなれない。…
 今一層望みたいことは,Drop your dignityである。初めよりdignityなどを持ち合わせない工夫があればこれに越したことはない。Non-Dignityで出て来て,Non-Dignityで遊んで帰りたいのである。何人も平等平易心置きなく嬉々として遊んで欣々として相擁して笑うという風になりたい。バッジ(会員章)を付けて常に己の名を外に見て貰うのも実はこのためである。気取らぬためである。威張らぬためである。…」

⑤ 西コースの誕生と東コースの改造 ~アリソン来霞の幸運~

 昭和4年,藤田欽哉は東コース工事責任者として發智家の屋敷に寝泊まりしていたころ,風光明媚な野戸池を中心にその周りを自由に取り入れるなら,また変わった面白いゴルフコースができると,發智庄平に話しかけました。しかし当時そこは「別天地」という霞ヶ関村の小公園であったので,發智はそのままに保存しておきたいという考えのようでした。

 翌年,開場1周年を控えて,内外の評判もよく会員数も500名を超えるようになっていたころ,發智から藤田に,「野戸池別天地地域の代わりに,自分の娘婿である高萩村の大地主大河原重行,塩川正男両氏の所有土地があるが,ゴルフ場として見込みがあるか,一度下見をして欲しい。もし見込みがあるなら第2コース建設を推進してもらいたい」という申し出がありました。

 藤田の2回にわたる実地調査を踏まえて( 2回目には18ホールのコースレイアウト構想はほぼできあがっていた),昭和5年9月に理事会は,第2(西)コース建設研究委員に山本栄男,藤田欽哉,石井光次郎,清水揚之助,河合鉄二,手島知健の各理事を委嘱しました。資金面が一番の難関でしたが,会員有志に社債を引き受けてもらい,西コース完成後の新規入会者の入会金で償還していく方式に,ほぼまとまりました。しかし,ゴルフ場立ち上げ後間もないなかで,さらに18ホール建設には時期尚早という慎重論も少なからずありました。

 しかしながら,この機会に東洋において初の36ホール,倶楽部ハウス前から双方に打ち出すことのできる2コースを有する,一大倶楽部を実現したいという熱心な会員も多く,昭和6年1月11日に西コース建設期成会が開催され,河北眞太郎,牛島正巳,豊川順彌ら16名が社債引き受けを名乗り出て,理事会に建設決行を迫りました。倶楽部運営については開設以来全会一致の精神を常に尊重し,これを慣例としてきましたので,慎重派とも時間をかけて検討を重ねました。

 そして,同年3月の臨時社員総会で西コース建設を満場一致で決議しました。建設予算102,500円,新規入会者350名,入会金400円。社債は2年据置, 3年目より5年間に適宜償還,利息7分。また総会後の理事会で理事長に山本栄男,副理事長に鹿島精一,キャプテンに藤田欽哉,名誉書記に牛島正巳など新体制を決定しました。

山本栄男

 直ちに藤田による,西に細長く伸びるコースレイアウト原案にしたがって,鹿島組による測量が開始され,ホールごとに建設責任者を決めて清水揚之助建設委員長のもと工事が開始されました。6番から12番までは現在のサイボクの敷地でした。

西コースの測量を開始

 この西コース建設の動きと相前後して,昭和5年12月19日,当時東京ゴルフ倶楽部総裁であった朝香宮鳩彦親王殿下が妃殿下と共に膝折に計画中の新コース下見の帰りのお供で霞ヶ関を訪れたのが,東京ゴルフ倶楽部に招聘されていたコース設計家のチャールズ・ヒュー・アリソンでした。同行した赤星六郎の案内で初めて霞ヶ関のコースを視察しました

霞ヶ関を訪れたアリソン(左から:清水揚之助、ベングレース、發智太郎、アリソン、赤星四郎)

 C.H.アリソンは,1883年イングランド・ランカシャーの生まれで,オックスフォード大学ゴルフ部では英米対抗戦の選手として活躍し,イングランドアマチュア選手権優勝2回,ドライビングコンテスト340ヤードという記録を持つ実力者でした。大学の造園学科卒業後はゴルフ場支配人の傍ら,ゴルフコース設計家を目指しました。1920年,先輩選手仲間で,セントアンドリュース・エデンコースやパインバレーを設計したハリー・コルトと共同で,ゴルフ場設計の教科書となった“Some Essays on Golf-Course Architecture”を著しました(のちにサイプレスポイントやオーガスタナショナルを設計したアリスター・マッケンジーも1 章を執筆)。1928年には,ウェントワースを完成させたコルトとともにColt, Alison & Morrison Ltd.を設立し,英米・欧州でコース設計を続けていましたが,東京ゴルフ倶楽部が膝折に計画中だったコースの設計をコルトに依頼したのは,そのころ1930年(昭和5年)でした。コルトは既に60歳を超えていましたので,11月に日本にやってきたのは,働き盛りの47歳のアリソンでした。

 アリソンは,霞ヶ関に初めてやってきて,各ホールをフェアウェイよりグリーンへ,グリーンより再びフェアウェイへと行きつ戻りつして,ほとんど無我恍惚の域に達したように熱心に視察し,案内者の赤星六郎をひどく疲労させたほどであったといいます。四囲の風景,地形,環境などより,世界的なコースであると激賞し,惜しむらくは,バンカーの形および位置が当を得ないこと,グリーンの形や高低につき改良すべき幾多の点がある,とのことでした。そして,他から頼まれることはあっても,いまだかつて自ら進んで頼み込んで仕事をさせてもらったことはないが,18ホール中、9番、14番および17番の3ホールを自分の設計によって改造させてくれまいか,さらに10番の池のホールも若干の改造を加えれば,世界に名だたるウォーターホールとなり,天下有数のコースとなること疑いないと,大変に好意ある申し出がありました。

 赤星六郎は,霞ヶ関は倶楽部開設後日も浅く,西コース建設検討中でもあり,経済的にも余裕がないことから理事会の承認を得ることは難しいのではないか,と言うと,これは金銭の多寡の問題ではない,私はあのホールズを改造なしにそのまま見過ごして帰英する気になれない,言い換えれば,この改造によって必ず世界有数のコースになり得る素質があるからだ,と熱誠を込めた提言であったといいます。

アリソンの提案レター、東10番とアリソンバンカー

 理事会は昭和6年1月12日,この義気あるアリソンの申し出を受け,前記4ホールにとどまらず,東コース全ホールの改造設計書の作成を依頼し,謝礼金などの支出を決定しました。アリソンは東京ゴルフ倶楽部の膝折(のちに朝霞コースと命名)のコース設計を2週間で仕上げると,霞ヶ関の顧問でもあり,東コースの設計に携わった赤星四郎の案内で,その後3回霞ヶ関を踏査しました。そして, 2月中旬,宿泊先の帝国ホテルの便せん4ページにわたり,タイプされた18ホールの改造設計書が送られてきたのです。この改造設計書に基づいて,アリソン助手,米国人ジョージ・ペングレースの監督指導のもとに,いわゆるアリソンバンカーを含む9,10,14,17番の大幅な改造工事が早速着手されました。その後,残余のホールもこの手本に基づいて,藤田キャプテンらによって3年にわたって改造が行われたのでした。そして,昭和8年に東コース改造は完了し,10月に第7回日本オープンゴルフ選手権競技が成功裏に開催されたのです。

1933年の日本オープンで18番を見るギャラリー

 霞ヶ関は東京ゴルフ倶楽部のおかげで,幸運なことに意図せぬ恩恵を受けることになりましたが,それは,東コースの改造にとどまるものではありませんでした。アリソンの改造設計手法とペングレースの工事手法をつぶさに見ることになった藤田キャプテン,そして,昭和6年初め,霞ヶ関に藤田さんの助手として入社と同時にコース隣に常住し,コース設計家を目指していた井上誠一には,当時世界最先端の近代コース設計の考え方,工事手法を研究する絶好の機会となりました。おりしも3月から工事の始まった西コース造成に現場監督として参加した若き井上は早速これを生かすことになり,後年藤田はアリソンらとの経験がいかに西コース建設に役に立ったか想像も及ばないと語っています。西コース設計は,アリソンにまったく相談せず,自分たち独自のものでしたが,東コース改造案に秘めるアリソン手法を取り入れて,10月にはあらかた完成したのです。

井上誠一

 11月には,倶楽部ハウス別館も西コース10番ティーインググラウンド後方に竣工し,さらに整備を加えて,昭和7年6月12日に盛大に西コース開場式を挙行しました。ここに東洋初の36ホール・コースが誕生したのです。

西コースの練習グリーンとスタートハウス、西コースにあった倶楽部ハウス別館

 アリソンが横浜から帰英する際,昭和6年4月6日夕,東京ゴルフ倶楽部主催により,程ヶ谷,川奈,霞ヶ関など各倶楽部代表者および有志による送別会が催されました。霞ヶ関からは,山本理事長以下,藤田キャプテン,牛島名誉書記,手島,石井各理事が出席して感謝の意を表し,別れを惜しみました。

 しかし,忘れてならないのは,この間,財政面で倶楽部運営が窮地に陥ったことです。慎重派の懸念が現実化し,1.7万円の運転資金がショートしました。銀行借入を理事会で決議したものの,交渉は難航し,わずかばかりの土地の担保に加えて,理事者の個人保証が求められました。山本理事長と藤田キャプテンが,当時鹿島組3代目の社長を務めていた鹿島精一副理事長に相談したところ,倶楽部維持運営費と西コース建設準備金とを合わせて, 5万円を融通してくれることになりましたが,あくまで山本・藤田両名に貸すという形で理事会などには一切報告しないという条件でした。そのため,陰で鹿島精一が霞ヶ関を救ったかたちとなりました。これがなければ,西コース建設はおろか,倶楽部も立ち行かなかったことでしょう。のちに,鹿島精一は昭和9年,霞ヶ関の第3代理事長を務めることになります。

鹿島晴一

⑥ 初期の委員会活動と第2グリーンの設置

 昭和7年,西コースの完成に伴い,新入会員募集のため,メンバーシップコミッティー(委員長平田篤次郎)が臨時に設置され, 168人が委員に委嘱されて,委員が責任を持って一人以上,人格本位に勧誘したところ,所期の会員数を確保することができ,入会後の指導にも当たることとなりました。これは,倶楽部の模範的なメンバーを広く選び,その友人・知人であれば倶楽部に相応しいだろうとの考えでした。

霞ヶ関カンツリー倶楽部一覧

 この会員募集活動に大いに役立ったのが,パブリケーションコミッティー(昭和6年4月設置,委員長鈴木文四郎,委員4名)が昭和7年春に刊行した冊子『霞ヶ関カンツリー倶楽部一覧 36ホール完成記念』(52ページ)でした。このなかで,東洋初の36ホールのコースと,これまた日本初のコースから独立した30打席の打ち放しの練習場を紹介したあと,倶楽部最大の特徴として,「会員同志が互いに親密であり,和合していることであります。これは現在の会員自身の素質に由るところ多いのは勿論ですが,倶楽部の理事者,委員等がそうすることに最初から力を入れているためであります。…ゴルフ倶楽部は単にその技を楽しむのみならず,会員として入会した以上,相互間に好き新しき友となるということに最も力を入れています。K.C.C.は何となく気持ちの良い倶楽部だと会員以外の人々から言われるようになったのは,倶楽部として最大の誇りとするところであります。」と結んでいます。

 そして,このメンバーシップコミッティーを発展させ,昭和8年2月,日本ゴルフ界初のフェローシップコミッティー(初代委員長平田篤次郎,委員19名,翌年49名に増強)が新設され,伝統の霞ヶ関精神の良風,グッドフェローシップを護り,西コース増設により続々と入会してきた新会員の指導融和に努めることとなりました。

 お互いがなるべく早く親密になるよう自己紹介をする,会員章(バッジ)の着用,プレーの心得を掲示してそれを徹底させるなどフェローシップ委員が大活躍し,指導を行いました。昭和6年11月に始まっていた「丸の内会」(丸の内に勤務する会員を中心に会員相互の親睦とゴルフ技術の向上を図るため毎月午餐会を開催)を解消してタウンクラブが設立され,フェローシップコミッティーが世話をして,全会員1,000名の融和懇親のため,毎月タウンクラブ午餐会が開催されました(第1回昭和8年7月20日)。その後も毎年5回程度開催され,ゴルフ界先輩諸氏の講演,新入会員の紹介などが行われました。

第1回タウンクラブ

 このほか,初期の委員会活動で忘れてならないのは,倶楽部財政に善処するため社債募集などを行ったファイナンスコミッティー(昭和7年6月設置,委員長原邦造,委員7)と倶楽部創立以来のキャディーコミッティーです。星野正三郎キャディー委員長のときに,スクールキャディー中心であったキャディーの訓育,特にその集団訓練に最も熱意が注がれ,島田繁喜草案により昭和7年4月,キャディーの心得や諸注意事項が記された『キャディー手帳』が制定されました。これも日本ゴルフ界の嚆矢で,のちに昭和12年,沼澤東衛委員長のときに,プレーヤーとキャディーが異体同心の親しみを持つように増補改訂されて,『キャディー読本』(36ページ)として発行されました。これは,現在,国立国会図書館に日本の歴史文化遺産として収蔵され,インターネット閲覧が可能です。

 もう一つ忘れてならないのは,会員宿泊所である「山荘」のことです。昭和6年5月に山荘設置準備委員9名が選任され,正門外道路の西側松林のなかの發智家の旧家屋を活用した瀟洒な7部屋の山荘は,昭和7年4月,常連有志で出資した山荘組合としてスタートしました。昭和9年11月には組合は解散し,倶楽部直営となって,野趣豊かななか,会員宿泊者同士懇親を深める絶好の場所となりました。

キャディー読本、東10番の池でボールを拾うキャディーたち

 昭和10年3月,発展途上にある倶楽部のため心身を打ち込んで努力していた初代主事(支配人)小宮小四郎が脳溢血で急逝されましたが,その後任には,倶楽部の事情に精通し,昭和6,7年度の理事であった牛島正巳が任命され,昭和20年まで勤めることになります。

 昭和10年10月には役員の予選,そのほか重要なる倶楽部運営の取り決めについて理事会の諮問に応ずるため,評議員会が設置され,赤星四郎,赤星六郎,井上信,石井光次郎の各氏ほか25名が評議員に推挙され,第1回の評議員会が昭和11年4月に開催されました(初代評議員会議長は前理事長山本栄男)。

      *   *   *
 昭和7年6月に開場した西コースのグリーンには,本邦初のクリーピングベントグラスが使用され,その生育状況は開場時には賞賛を受けましたが,8月の干天酷暑に急激に悪化してしまいました。樹林に囲まれた西コースは通風不良,盛夏時の湿気は強く,水道設備を持たない浅井戸の潅水程度では,ベントグラスの越夏は困難であることが分かりましたので,昭和8年応急対策として,コーライ芝の第2グリーンを造り,夏季はこれを使用し,冬季のプレーのみベントの本グリーンを充てることになりました。工事は昭和8年末から昭和9年末に行われ,西コース15ホールに第2グリーンが設置されました。

 しかしながら,年のうち長期間使用する本グリーンをコーライ芝として,第2グリーンをベントグラスとすることが,究極において得策であるとのグリーンコミッティー(委員長河北真太郎,委員6名)の結論から,昭和10年には,西コースの2つのグリーンの芝種を入れ替えるとともにチャンピオンコースを目指し,コース自体の改造も行って,7月には竣工しました。

 昭和12年からは,散水用水道設備の敷設とともに東コースも第2グリーンの造成が進められました。従来コーライ芝の本グリーンを冬季を通じて使用した場合,春季において悪い結果をきたしたためにこれを一時閉鎖して,仮のテンポラリーグリーン(春季グリーン)を代用する不快の繰り返しを解消し,一年を通じて快適なプレーをなし得るよう,この際,西コースの経験を活かし,本グリーンと大差ないウィンター用の第2グリーンを設置し,これにベントグラスを使用することにして多年の悩みを解決することが検討されました。

 緯度のわりに盛夏は特に蒸し暑く,厳冬の冷凍烈しき霞ヶ関において,かつプレーの数量において,夏冬二つのグリーンを持つことは,最も合理的であるのみでなく,そのレイアウトの如何によって,コースの景観を何ら損なうものでないとの結論に達しました。そして,昭和12年5月に保全部長(グリーンキーパー)に就任した井上誠一を中心に設計・工事が順次進められ,昭和13年6月までに東コースすべてに第2グリーンを設置,昭和14年6月までに西コース残余のホールも含めてすべてに第2グリーンをクリーピングベントグラスにより設置しました。これにより,東西36ホールにそれぞれ第2グリーンを完備することとなったわけです。

 昭和14年のメンバー総数は1,206名,来場者数は19,087名(うちビジター3,068名)と戦前の最高を記録しました。しかしながら,昭和15年以降は戦時色が強くなり,ゴルフ自粛の通達も日本ゴルフ協会から発出され(昭和15年9月),Fairway誌も休刊となり,ゴルフ倶楽部としては厳しい時代が続くこととなります。

ゴルフ自粛通達、戦前のフェアウエイ誌最終号

⑦ 戦争,接収そして見事な復活

 太平洋戦争突入後の昭和17年になると,警戒警報下のプレー禁止,キャディー原則廃止はもちろんのこと,従業員は応召や軍需工場への徴用で激減し,ゴルフ入場税の大幅増税のうえ,石鹸・タオルなど使用品が欠乏してプレーヤー持参となったり,ゴルフ用語の邦語化などが指令され,倶楽部名称も霞ヶ関田園倶楽部と定款変更になりました。

 昭和18年に入ると,食料増産協力要請から,練習場やラフの一部の開墾が始まり,さらに農業専門家を採用して農耕部を設置し,カボチャ,サツマイモ,小麦,陸稲などを生産あるいは生産委託しました。また,昭和19年にかけて,陸海軍飛行場から拡張用および新設用として,合計20万坪を超える芝の徴用があり,これにも応じざるを得ませんでした。

 一方,隣接する東京ゴルフ倶楽部の旧コース(旧秩父カントリー倶楽部の旧コース)約10万坪を日本鋼管(株)が譲り受け,農場経営に着手することになり,その拡張要請に応じるかたちで,境を接する霞ヶ関東コースの東部の土地を譲渡することになりました。東4番から8番,12番から15番までが,変電所諸機械および水道設備とともに昭和19年12月に82万円で譲渡されました。その資金は,戦時下の窮状を凌ぐ貴重な準備金となる予定でした。また,同年末には,豊岡航空士官学校から軍用資材(爆弾など)疎開地として,西コース道路以西地区や倶楽部ハウス別館が徴用され,鉄条網が廻らされて立ち入り禁止となりました。

 このゴルフ場受難の時期に理事長を務めた手島知健に代わり,昭和20年4月理事長に就任した藤田欽哉は,産婆役が葬儀役になったと嘆いて,細々と続けていた営業を停止し,とうとうゴルフ場閉鎖となりました。

 敗戦後の昭和20年9月23日,ゴルフ場に突如やってきた米軍司令官の「Take it over !」という手書きの紙片から始まった,米軍第五航空隊将兵のレクリエーションのための接収には占領下の敗戦国側として抗う術もありませんでした。倶楽部側は英語に錬達の溝田主一を渉外部長・理事に起用して,交渉に当たりました。

 接収期間は定めず,年度ごとに切り替える。接収物件は倶楽部ハウス,その他の付属建物,関係設備家具什器ならびに18ホールのコース,クラブセット285組。接収条件は,日本政府の査定による補償料を所有者に支払う,というものでした。クラブセットは1 カ月42円,また倶楽部側には月額2万5千円が支払われました(毎年改訂)。

 まずやらなければならないことは,耕地として使われたりして荒れていたコースの復旧でした。西9ホール(旧1,2,3,4,5,14,15,17,18番)をまず整備し,東9ホール(旧1,2,3,9,10,11,16,17,18番)も整備して,西(アウト)東(イン)組合せの18ホール,1ラウンドコースを一年かけて昭和21年10月13日に完成させました。多量の労働力にブルドーザーやトラクターも動員されましたが,この費用は米軍の負担でした。

 この18ホールが,部分的に米国人向けに改造された倶楽部ハウスとともに,ジョンソン・ゴルフクラブとして米軍将兵の使用に供され,霞ヶ関のメンバーには厳しい使用制限がありました。しかし,この復旧した18ホールは戦後霞ヶ関復活のベースとなったのでした。

 早い時期に借地から所有に切り替えた旧東コースと違って,旧西コース18ホールは大半が買取権付きの借地のままでしたが,そのうち道路以西(旧6,7,8,9,10,11,12番ホール)については,軍用資材撤去後は農地化し,一部は大陸からの引揚者用地として国家買収となり,また一部は牧場用地として買取希望のある久星酒造に倶楽部ハウス別館とともに昭和23年に売却されました。このときの売却資金で,残りの西コースの借地(当時使用されていた旧3,4,5,14,15,16,17番ホールにまたがる土地)を農地改革対象のため処分希望の強かった地主から買収したのでした。

 また,霞ヶ関メンバーの利便性向上のため,旧東コースの残り9ホール(旧4,5,6,7,8,12,13,14,15番ホール)復活の希望は強く,米軍接収のため共同管理となっていた日本鋼管(株)と交渉の末,売却価格と同価格で買い戻す内諾を得ました。そして昭和24年には東コースをチャンピオンコースとして復旧させるため,東コース再建委員会が設置され(委員長手島知健,委員22名),資金面,技術面,工事面の検討が加えられました。工事は昭和25年3月に始まり,費用節約のため芝を育成しながら自給したため,完成は27年9月となりました。設計管理は井上誠一で,現場監督は藤田欽哉の子息,藤田晴之で, 6番グリーンと7番ショートホールが大きく変わりました。ここに西9ホールとあわせ,27ホール体制ができあがったわけです。

 昭和26年9月,サンフランシスコ講和条約が締結され,翌年3月には接収解除となり,6年7カ月振りに本格運営の権利を回復して,その後はジョンソン・ゴルフクラブとの共同経営となりました。昭和27年9月23日の東コース再開記念トーナメントでは,誰からともなく,西コースの18ホール化(9ホール増設)を望む声が続出し,昭和28年2月の総会で,西コース9ホール増設のための用地買収と建設が決定され,また資金確保のために新入会員募集も併せて決定されました。昭和27年には410名の新入会員があり,翌年2月には新旧会員の顔合わせ懇親パーティーなどが開催されました(さらに昭和29年には200名の新入会員があり,総会員数は1,817名となりました)。

接収解除の調印式

 西コース9ホール増設の設計は井上誠一で,その地形位置は既存西9ホールの西北側に面し,野戸池を取り入れた東野戸山,西野戸山の小字地区のほとんどを使用して7ホールを新設(7~13番),2ホールを既存用地内の休コース改造(旧13番を6番とし,旧16番池越えショートホールを復活など)で9ホールを増設する計画となりました。そこは,奇しくも20数年前に,藤田欽哉が發智庄平(昭和11年逝去)に風光明媚な野戸池を中心にその周りを自由に取り入れるなら,また変わった面白いコースができると語った場所でした。

 西コース建設委員会(委員長玉井喬介,委員8名)が設置され,昭和28年3月から本格的に用地買収に着手,買収済のところから順次現地測量を始め,同年11月から本工事に着手しました。工事請負は大成建設(株)に依頼し,また野戸池水利組合に加入し,その利用および一部埋立てにつき契約を交わしました。

 昭和29年4月には,ジョンソン・ゴルフクラブとの共同経営を廃して,霞ヶ関単独の運営に移行しました。西コース9ホールの増設工事は順調に進み,同年9月竣工の運びとなりました。おりしも霞ヶ関創立25周年記念式典と合わせて,9月28日,西コース完成記念式典が盛大に挙行されました。また29日には野戸池の畔にあった弁財天の遷座式と地元関係者招待晩餐会が催されました。10月3日には元朝香宮鳩彦親王が始球式をされ,記念祝賀トーナメントが喜びのなかに開催されました。ここに東・西36ホールのコースが再び完成し,戦争,接収と失われた10年を経て見事な復活を果たしたわけです。

 この間,Fairway誌も昭和25年12月には復刊し,その再開第一号のなかで理事長藤田欽哉は,創業者にして再興者としてのことばを寄せていますので,以下に再録いたします。

戦後のFairway誌復刊号

 「顧みるに,K.C.C.の創設は,従来ややもすれば高踏的な伝統に閉じられたるゴルフ倶楽部の民主化を実現するのが一つの強い旗幟であった。而してそれは充分に徹底せられ,他の倶楽部から羨望せられるほどの美風を堅持してきた。K.C.C.はどこまでも我々のK.C.C.で,会員も従業員もキャディーの幼き者までも真に一体となって,最早美しい伝統にまで育成されてきた。この美風は戦後日本が,あらゆる方面に180度転回を余儀なくされても敢えて左顧右眄の必要なく,倶楽部精神として一貫して行くべきであろう。…」

 創立25周年記念行事の一環として二十五年史編纂委員会が設置され(委員長沼澤東衛,委員3名),昭和30年10月には520頁におよぶ「霞ヶ関二十五年史」が刊行されました。

霞ヶ関25年史

 また,戦前から倶楽部ハウスは老朽化と手狭の理由で新築の必要が唱えられてきましたが,昭和29年11月倶楽部ハウス新築委員会(委員長佐々木周一)が設置され,同年末の臨時総会で倶楽部ハウスの新築が議決され,倶楽部債の募集などで予算8,500万円,設計は山下寿郎に決定されて,工事は清水建設(株)が落札し,昭和30年3月に着工,同年11月には全館鉄筋コンクリート造2階建て,延面積885坪の白亜の倶楽部ハウスが竣工しました。

2代目倶楽部ハウス

 そして,昭和31年9月にはチャンピオンコースとして新たに蘇った西コースで第21回日本オープンゴルフ選手権競技が成功裏に開催されたのでした(優勝は中村寅吉プロ)。

1956年の日本オープンで優勝カップを受け取る中村寅吉

⑧ ゴルフブームを招来したカナダカップの開催

 霞ヶ関で第5回カナダカップが開催されたのは昭和32年(1957年)10月でした。日本に一大ゴルフブームを巻き起こした初の国際試合,カナダカップについて語るには,主催者であるI.G.A.(国際ゴルフ協会,現在のI.G.F. /国際ゴルフ連盟とは異なる)を創設したジョン・J・ホプキンス氏から始めなければなりません。

カナダカップの入場ゲート

 カリフォルニア州生まれのホプキンス氏は,ハーバード・ロースクール出身の弁護士でしたが,財務長官顧問などを経て,向いていた事業経営に転じ,1952年に原子力潜水艦ノーチラス号の建造で有名になるジェネラル・ダイナミックス社を設立し,モントリオールにある子会社カナダエア社の社長・会長を兼務しました。しかし,その事業の余暇には精力と情熱をゴルフに傾注し,国際友好に対する深い関心(ナショナリズムは身を食いほろぼす病にほかならない)から“ゴルフを通じての国際親善”をモットーに国際ゴルフ協会を創立しました。ここから世界30カ国の選手が参加するカナダカップ争奪戦の構想が生まれたのです。特大カップの寄贈はもちろん,全参加選手の費用も負担したのでした。

 第1回の国別対抗団体戦(カナダカップと命名,各国2名の合計)は参加7カ国でしたが,1953年カナダのモントリオールで開催され,1954年第2回の参加国は25カ国に増え,カナダのケベックで開催,このとき日本は初めて代表選手(中村寅吉,石井廸夫)を送りました。1955年第3回の参加国は同じく25カ国でワシントンD.C.のコロンビアC.C.で開催(日本選手は小野光一,栗原甲子男)。1956年第4回は初めて大西洋を渡り,イギリスのウェントワースG.C.で開催され,アメリカのベン・ホーガン人気(個人優勝,サム・スニードと団体優勝)と翻る参加29カ国の国旗にイギリス人は興奮し,全英オープンを上回るギャラリーが詰めかけました。日本(林由郎,石井廸夫)は4位タイの好成績でした。機は熟したと考えたホプキンス氏は,翌年は太平洋の彼方,日本で行うことを決意しました。

 その前年1955年,初代原子力委員長に内定していた読売新聞社社長正力松太郎氏は,カナダカップ開催の日本誘致も念頭に,極東における原子力の平和利用促進に意欲のあったホプキンス氏を日本に招待しました。実際に日本のコースでゴルフをやってみたホプキンス氏は,正力氏と会って意気投合し,カナダカップの日本開催を考えたのでした。後に二人は共に奨学資金を創設して,カナダカップ東京大会からの収益で日本の学生を4年間アメリカの大学に留学させる費用に充てることも計画しました。

 1957年の読売新聞元旦号は,その年の秋に開催する東京での日本初の国際ゴルフ大会,第5回カナダカップの告知をしました。実際に使用するコース選定のため,2月中旬にトーナメント・ディレクターであるI.G.A.副会長のフレッド・J・コーコラン氏が来日し,J.G.A.幹部の案内で3日間,東京近郊の戦前からある名門倶楽部など8カ所を視察することになりました。

 霞ヶ関側の案内役であった溝田主一氏によると,霞ヶ関は2日目の3つの倶楽部の最後で,コーコラン氏は東コースの視察を終えると, 3日目の予定をキャンセルするよう求めました。同道していたJ.G.A.幹部は,「既に残りの2つの倶楽部に前触れを出していますし,倶楽部の幹部がお待ちしていますから困ります」と異議を唱えました。しかし,コーコラン氏は動じず,きっぱりと自分はもう既に決めたと言って,「ここです(This is it) 日本中でここより良いレイアウトはあり得ない」と。

 霞ヶ関の松岡敬理事長と会談後,コーコラン氏は記者会見を開いて,10月のカナダカップの開催場所を霞ヶ関カンツリー倶楽部とすることを発表したのでした。

 東コースのグリーンを張り替えている時間的余裕はなく,欧米人選手になじみのない,目のきついコーライ芝のままでしたが,記者の質問にコーコラン氏は「セームチャンスであるからそれでよいのだ,いかに悪いコンディションでも世界の選手たちがこれをいかに克服するかをみてもらいたい」と答えました。

 しかし,霞ヶ関は,井上誠一氏の指導のもと,5,9,11,14,17番ホールのフェアウェイバンカーの位置を後方にずらし,形も変え,ティーインググラウンドを整備し,またバンカーの砂も茨城産の白砂に変更しました。

 10月21日から3日間の練習日が設けられましたが,22日の夜には東京會舘で参加30カ国60人の選手の歓迎レセプションが,高松宮殿下ご臨席のもと各国駐日大使が居並ぶなか,大会名誉顧問の岸信介首相,米国アイゼンハワー大統領,カナダのディーフェンベーカー首相のメッセージとともに盛大に開催されました。まさにゴルフを通じた国際親善の幕開けでした。

カナダカップのレセプション(中央左が高松宮殿下)

 霞ヶ関のコース管理部門は10月24日から27日までの開催期間に向けて,コースをベストコンディションに仕上げたほかに,霞ヶ関は大会の運営にも大きく関わりました。大会はI.G.A.,J.G.A.,読売新聞社の共催でしたが,大会役員は,名誉会長の正力松太郎氏,会長は石井光次郎J.G.A.会長,副会長は野村駿吉J.G.A.副会長のほか,二名は霞ヶ関からで,松岡敬理事長と溝田主一でした。実行委員長(兼ルール委員長)は小寺酉二J.G.A.常務理事でしたが,顧問に藤田欽哉が加わり,霞ヶ関役員は総出で分科委員会を陣頭指揮しました。

 ギャラリー委員長に山田鐵之助名誉書記,パーキング委員長に藤岡卓児副理事長,グラウンド委員長に桑原圭三郎理事,ハウス委員長に佐々木周一理事,スコア委員長に三好徳行理事,ルール副委員長に横田玄司理事,キャディー委員長に中村哲夫委員長など,関東の協力倶楽部からの多くの応援委員にも支えられて,各委員会委員(会員),従業員一丸となって準備を進め,無事,世紀の国際ゴルフ大会を成功裏に終了したのでした。

 特筆すべきは,事前に十分訓練を積んできた若い女性キャディーたちで,真紅の上着に黒の帽子,背中に国名,胸に選手名を白く描いた制服に身を包んだ姿は,キビキビとした動作で外国選手たちからの評判は上々でした。アメリカのサム・スニードはキャディーの川目くらさんの的確な判断に感心して,バッグに入れて連れて帰りたいと言ったという逸話が有名になりました。

カナダカップでの東9番のプレー、張り切るキャディー

 表彰式では,再来日を強く望みながら5月に急逝したホプキンス氏に代わってI.G.A.会長に就いたフランク・ペース・Jr.氏からインターナショナル・トロフィー(個人優勝)が中村寅吉,カナダカップ(団体優勝)は日本(中村寅吉,小野光一)へと渡されました。べン・ホーガンは背中痛のため参加できませんでしたが,アメリカ(サム・スニード,ジミー・デマレー)は2位,3位は南アフリカ。個人2位タイにサム・スニードと南アフリカの当時19歳だったゲーリー・プレーヤーが入りました。

優勝カップを手にする日本チーム

 日本テレビが試合の様子をゴルフ番組としては初の全国ネット生中継し,まだテレビ普及率は低かったとは言え,お茶の間に日本の優勝を届けたことは,日本に一大ゴルフブームを引き起こし,ゴルフの大衆化が進むきっかけとなりました。残されている映像を見ると,日本選手のパッティングは,途中のラインを読むということではなく,ホール周りの芝の目をしきりにホールを覗き込むように見ていました。当時中村寅吉についていた網中一郎や竹間正雄プロによると,ボールに勢いがなくなったときにどちらに曲がるかということを見るためにカップの切り口の芝がどちらに寝ているかを見ていたというわけです。やはり,コーライ芝の攻略には日本選手に一日の長があったことは否めなかったようです。

カナダカップの中継カメラ

 4日間は天候にもほぼ恵まれ,来場者数は17,350人,有料駐車台数4,495台。日本における「見せるゴルフ」,「見るゴルフ」の始まりでした。倶楽部はカナダカップ関係収支の剰余金から,大会の成功を支えた全従業員(145名)に対し特別慰労金を支給しました。

日本チームの優勝パレード

⑨ コースの改良と三代目倶楽部ハウスの建設

 昭和30年代から50年代を通じ来場者は、一時的に落ち込みはあったもののゴルフブームに支えられて一貫して増え続け,平成4年には72,781名(メンバー36,042名,ゲスト36,739名)の最高来場者数を記録しました。また会員数も漸次増加し,昭和47年には2,659名(正会員1,659名,週日会員820名など)と最多を記録しました。したがって,この間,倶楽部の経常収支は黒字が続き,財政的には安定した運営が行われました。

 以下,昭和後半から平成の初めにかけての記憶すべき主な改革などについて記します。

 まず,昭和44年には,キャディー対策の一環としてキンダーハウスと呼ばれる保育施設を新設しました。これはキャディー志望者のなかには未就学児童を抱える母親が多かったことから,この解決を図るためにキャディー委員長星野一夫の強い指導力のもと,倶楽部専用の保育施設,キンダーハウスを東京家政大学堀内康人教授の指導を受けてコース管理棟(旧)裏に建設し(児童50名収容),保母さんも数名確保して6月に開園しました。園長の堀内教授,一ノ瀬和子主事の熱心な教育理論に基づいた幼児教育は躾の良さとも相まって評判を呼び,キャディーの子女以外の児童も預かるようになり,地元からも好評を得ました。しかし,県内近隣の保育・幼稚園施設もだんだんと充実してきたため,20年後の平成1 年3月にその役割を終え,閉園となりました。卒園者数は201名。現在の従業員のなかにはその卒園者も含まれています。

キンダーハウス

 コースおよび用地の整備には不断の努力が続けられました。昭和30年代を通じ,コース内各所に散在する形式的な農道を廃道とした上で倶楽部に払い下げてもらうべく,川越・狭山・日高市と折衝して公道の払い下げを実現しました。そして,旧倶楽部正門前から西18番ホールに沿って西コースを横断して走っていた県道狭山~笠幡線については,倶楽部創設時には森の中の小路に過ぎなかったものが,自動車交通量の増加によって県道に編入されてしまい,倶楽部としてもこの道路を西コースの西北側に迂回付け替えできないかと交渉を県側と進めました。県としても未開発地域の開発事業として,44年1月には倶楽部と県との間に協定書が結ばれ,倶楽部は用地の一部供出,関係地主の了解をとりつけて協力金を支払うこととしましたが,実際に新道が開通したのは46年12月でした。

 これに伴って,旧道は47年10月に廃道となって倶楽部に払い下げられ,西コースの眺望は格段によくなりました。この県道の付け替え工事に要した関連費用は2億円を超えました。また,これに伴う西コース・レイアウトの変更について改造研究委員会(委員長・野田秀助)の審議に基づき,昭和51年,2番ベントグリーンを後方に下げて面積を広げ,17番グリーンの高麗とベントグリーンの入れ換え,11番ベントグリーンの改造などを行いました。また,前後して昭和46年,旧正門前の「山荘」閉鎖に伴い敷地と家屋を買収したので,倶楽部外周は著しく整備されました。

 昭和45年4月,倶楽部創立者の一人として当初より倶楽部開設,運営の中心にあり,40有余年にわたる後半生を霞ヶ関カンツリー倶楽部に傾倒された顧問藤田欽哉は,倶楽部食堂における新旧役員懇親会の席上,持論の東コース改造案を述べている最中に心筋梗塞で倒れ,急逝されました(享年80歳)。青山斎場において倶楽部葬が営まれ,多くの参列者が冥福を祈りました。

晩年の藤田欽哉

 昭和47年からは毎夏東・西両コースを提供して日本ジュニアゴルフ選手権競技が開催されるようになり,そこから男子・女子プロツアーで活躍する数多くの名選手が輩出されてきました。そして,昭和58年4月,公益法人である倶楽部の運営のなかにどのように公益性を取り入れ,実施していくかを検討する公益委員会(初代委員長・髙井研次氏,委員5名)が常設委員会として設置されました。

日本ジュニアのプレー風景

 この間,輝く倶楽部創立50周年を祝う記念式典およびパーティーが,昭和54年10月30日,日本工業倶楽部講堂に665名の参会者を集めて,盛大に執り行われました。

 二代目倶楽部ハウスは,増加するゲスト数や会員数に対応するため,昭和36年と50年の2回にわたって増改築が行われ,建坪も当初の885坪から1,283坪になっていましたが,素材の劣化,給排水管,機器の老朽が目立ち始めました。加えて女子プレーヤーの増加に対する受け入れ態勢充実や消防,耐震の見地からもハウスの建替えが喫緊の課題となってきました。

 昭和60年3月,建替えを前提としたクラブハウス調査委員会が設置されました(委員長・長濱正雄ハウス委員長,委員5名)。12月,設計者決定のための4者指名設計コンペの結果,日本建築家協会推薦の著名建築家の審査を経て,常務理事4役(澤田悌理事長,下河辺三史副理事長兼名誉書記,佐竹浩名誉会計,倉田博順キャプテン)は,施主の意向を反映させる柔軟な設計姿勢を認めることを前提として,岡田新一設計事務所に設計を委嘱することを61年1月の理事会で決定しました。4月には前記調査委員会をクラブハウス建設委員会と改称して進めようとしましたが,この間の経緯や決定プロセスが会員には公表されていなかったことや,現倶楽部ハウスが真に使用に耐えないものなのか,という会員からの疑問に十分な説明がされなかったことなどから,さまざまな疑義が提起されました。理事会は改めて現倶楽部ハウスの耐久診断調査を実施し,会員に公表しました。その結果,ハウスの受け入れ機能を高める点で改修よりも新築を選ぶ理事会の方針を支持する流れとなりました。これを受けて新たに平成1年4月,新倶楽部ハウス建設委員会を発足させ(委員長・髙井研次氏,委員6名),7月臨時社員総会を開催し,新倶楽部ハウス建設計画案および平成1年度予算一部修正案を諮り,承認を得ました。

 平成1年11月,設計監理契約を岡田新一事務所と締結し,12月の社員総会では総事業費39億3千万円(建築費33億円,周辺整備費6億3千万円)の改訂増額が承認されました。清水建設と新築工事請負契約を締結し,平成2年2月地鎮祭を経て,2年半後の平成4年8月27日,延べ床面積1,987坪の新倶楽部ハウスは当初予定より3年近く遅れて竣工しました。並行して,新正門に伴う新進入路は,なだらかなアプローチ曲線を描いて平成2年3月に前庭と共に完成しました。

現在の倶楽部ハウス

 設計者の岡田新一氏は,最高裁判所,警視庁本部,宮崎県立美術館など数多くの公共建築を設計した名建築家で,倶楽部ハウスの設計コンセプトとしては,「伝統と格式のある倶楽部の歴史への愛着から,ゴルフ発祥の地であるイギリスから輸入したレンガを壁素材として用い,19番ホールはプレーのあとにメンバーが集うくつろぎの空間としてその中心に暖炉を置く,そしてコースからその煙突がハウスの象徴として望めるようにし,食堂とコースのつながりを重視して,食堂前の芝生の広場や36ホールにわたる広いパノラマの眺めを楽しめるようにデザインした」とあります。

 このうち,暖炉については,竣工後ほどなくしてほとんど使用されなくなり,平成16年11月,暖炉を撤去してラウンジを広げ,コース側に本格的なバーを造るという提案が会員説明会でなされ,平成17年4月には新しいバーラウンジが完成しました。

バーカウンターにて

 グリーンについては,昭和50年代まで東・西ともメインが高麗芝,サブがベントでしたが,ベントグリーンのメンテナンス技術の向上によりパッティングコンディションの良い期間が長くなり,年間のメインとサブの使用比率が逆転して,ベントのサブグリーンの使用割合が競技も含めて多くなってきました。そこで,メインの高麗芝をベントにして,サブを夏場を中心とする高麗芝に変換する研究・調査が行われました。

 昭和60年9月の理事会で東コースのグリーンをパーウィック方式の床構造に改造し,ペンクロス・ベントを使用することが決定されました。昭和61年11月には仮オープンして,グリーン面積も若干大きくなりました。当初サブグリーンは高麗芝にする予定でしたが,夏季においても管理技術の向上によりベントのままで使用可能となることが実証されて,東はベントのツーグリーンとなりました。

 この東コースでは平成7年,第60回記念の日本オープンゴルフ選手権競技が開催され(優勝:伊澤利光),コース,倶楽部ハウス,運営とも高い評価を受けました。また同じ東コースで平成11年,第32回日本女子オープンゴルフ選手権競技が開催されました(優勝:村井真由美)。

1995年の日本オープンの大ギャラリー

 東コースのベントグリーンの成功を受けて,西コースのメイングリーンのベント化と一部コース改造を目的とした西コース改造研究委員会(委員長・廣海泰三,委員10名)が平成4年1月に発足しました。当時西4番ホールは,スペースがないためにメイングリーン・サブグリーンを前後に配置し,プレー上,景観上とも好ましくない状況で,将来にわたってツーグリーン制を維持するのか,設計者の当初の意向を考えてワングリーン制に戻すのか議論されましたが,結論は将来のワングリーン化を見据えてのメイングリーンベント化となり,床はパーウィック方式の一長一短を踏まえてカリフォルニア方式としました。

 設計監修は会員の川田太三が無償で担当することとなりました。グリーンの面積もワングリーン化を見据えて,高麗グリーンに比べかなり大きなものとなりました。また,倶楽部ハウスから遠かったアウト終了,インスタートを倶楽部ハウスに引き寄せるため,新たに9番ホールを旧9番ホールを右から横切る形で新設し,その9番グリーンに隣接する形で10番ティーインググラウンドと茶店を作り,旧10番ホールに途中から合流する新しいパー5の10番ホールを完成させ,旧9番ホールのフェアウェイ部分には調整池を造りました。

 新コースは平成5年10月から使用開始となりましたが,ワングリーン化へ向かってのサブグリーン撤去工事については慎重を期しました。メイングリーンの通年使用を試行しながら,夏季の高温多湿に対処するために扇風機を設置したり,東側の日照を確保するよう努めました。サブグリーン撤去工事の会員説明会は平成9年11月に行われ,平成10年2月から撤去工事,跡地の植栽などの整備を行いました。その後, 1番と2番のグリーンの改良工事を行い,平成14年9月に完成しました。

 平成18年にはこの西コースで第71回日本オープンゴルフ選手権競技が開催され(優勝:ポール・シーハン),美しい景観がテレビ中継されたのは記憶に新しいことでした。

2006年の日本オープンでの西16番

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