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アリソンが改造した霞ヶ関の東10番

井上誠一と霞ヶ関の深い関係

-チャールズ・アリソンが両者を結び付けた-

アリソン
井上誠一

日本のゴルフ場設計史に大きな足跡を残した井上誠一。

その井上が、若い頃から霞ヶ関カンツリー倶楽部(以下霞ヶ関という)と深い関係を持っていたことはあまり世に知られていません。井上は、昭和29年に完成した霞ヶ関の新西コース(戦前の西コース18ホールのうち、10ホールを新たな立地に変更して建設された)の設計で知られていますが、それ以外にも戦前から霞ヶ関の東コースの改造、旧西コースの建設にも深く関わっていたことは、意外と知られていない事実です。

どのようにして井上はゴルフ設計に興味を持つようになり、日本になかったゴルフ場設計を職業として成り立たせるまでになったのか。本稿では、井上誠一と霞ヶ関の関係に焦点を当てて、井上自身が残した文章も紹介しながら、その足跡を追ってみようと思います。

井上の生い立ち

井上誠一は1908年(明治41年)8月1日に東京で生まれました。母は井上モトで、現在も1年間の外来患者が約45万人の眼科の専門病院で、明治時代には夏目漱石も通った創立140年近い日本で最も歴史のある御茶ノ水の井上眼科病院の創始者(井上達也)の長女です。誠一の父は井上家の養子の井上(旧姓木内)誠夫で、東京帝大卒業、ドイツ留学を経て井上眼科病院の院長、岡山医学専門学校の眼科教授、順天堂大学の初代眼科部長、後年は宮中侍医をつとめました。

従って、井上も父の後を継ぐべく医師への道に進むつもりでありましたが、病気により転身を余儀なくされます。

成蹊高校在学中に当時流行りの急性伝染病疾患の「嗜眠性脳炎」に罹り、療養生活に入ることになりました。それまでの井上は、趣味のカメラ、映画、メーキャップに興味を持ち、映画の本場のハリウッドに憧れていました。しかし、療養中に川奈でゴルフを覚えて、その川奈で東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計を依頼されて来日していた英国人設計家チャールス・アリソンの仕事ぶりに接することになりました。叔父の井上達四郎(三井物産ロンドン支店次長で霞ヶ関のメンバー)により、霞ヶ関の会報に井上とアリソンとの出会いについて述べられています。

【霞ヶ関カンツリー倶楽部会報-Fairway誌-1968年3月号から引用、年男の感想、井上達四郎】

老生は第一世界大戦直後、即ち大正7年から昭和2年(1927) まで9年間、倫敦の三井物産に勤めておりました。最初英国渡航には、当時浮流水雷で危険なスエズ回りで2ヵ月もかかって、やっと砂糖もパンも肉も不足勝ちな倫敦に到着致しましたが、赴任早々先輩からホームシック除けにゴルフのクラプを授って、無理槍に球を打たされたのが抑々ゴルフの病みつきでした。しかもその先輩は「ゴルフは基本から本式に修練しなければ駄目だ」との意見で早速コースに出てプロの手解きを受けました。その教練の要領は当時英国一否世界一のVARDONの流儀で、既に30を越して骨節の強張った中年者には、到底真似の出来ぬ芸当ばかりで、これを無理に稽古精進したばかりに、遂に英国の風土特有のGOUT(腰の神経痛)に取り羅られ、一生涯悩まされつつある始末です。その上なお英国のゴルフコースのラフには、初夏キンポウゲ(Butter Cup)等の花粉や羽根のついた種子が飛散するので、これをラフのロストボール捜しに鼻や口からやたらに吸いこんだ因果は、英国特有の五月熱病(Hayfever)に冒され、半世紀後の今日なお未だ晩春初夏になると咳や嚏で難渋する始末です。

さて世界地図を拡げてみると、英本国は大抵緑色で塗られている如く、英国全土は恰もハイドパークの延長のような一面常緑の芝生で、この広大な緑野が英国民を紳士淑女に育成し、ゴルフ、庭球、蹴球、その他乗馬、狩猟等のスポート並にスポート精神を創造したものと信じます。

しかるに老生が9年振りに帰朝してみると、日本全土は褐色で頗る陰欝です。依て祖国の山野を緑化して、なるべく人心を融和且つスポート化せんと念願し、まずゴルフ場、庭球場、蹴球場、野球場等にはスコットランドのターフのような常緑繊細の芝生を栽培することに執尽致しました。

しかも帰朝出時、即ち昭和初年のゴルフ場は関東では駒沢と程ヶ谷だけしかなく、グリーンまで全部高麗芝でした。依て老生は早速以上の両倶楽部に入会の上、まず玉川の自宅でBentgrassの育成に着手しましたが、お隣りの家は三菱文庫で、当時緑化推進運動家の岩崎小弥太氏もここで熱心に常緑種芝を育成せられ、老生のよき相談相手でした。

なお三井高公氏(現在は八郎右衛門氏)も老生が倫敦時代に於けるゴルフの好敵手でしたが、氏は昭和4年頃倫敦から帰朝早々老生に都心から車で1時間位で行けるゴルフコースを物色方委嘱あり、依て当時アリソン建設中の朝霞の常緑コースに劣らぬリンク築造方に狂奔中、満州事変突発で軍部の各種欧米伝来のスポート駆逐政策に禍せられて沙汰やみとなりましたが、時恰も三井弁蔵氏の軽井沢コース創設で野芝の播種育成栽培には及ばずながら協力致しました。

更に大倉喜七郎氏は昭和の初め川奈の大島コース改造につき英国から初めてアリソン氏を招聘せられたので、芝生は甥の井上誠一(当時学生)を通訳兼助手として、ゴルフコースのLayoutを教えて貰うよう頼みました。爾来甥はリンク造成に熱狂し、霞ヶ関の西コースを初め各地でコースを創設し、小生についでBentgrassの育成に研究を続け、先般老生多年の念願たるスコッチターフ見学にSt Andrewsまで遠征し、老生の目標たる「英國ウィンブルドンの世界庭球選手権試合用のセンターコートのターフを日本にも造成」方実現のため日本のターフを高麗芝から草(Bentgrass)から更に苔(Moss)にまで革新方に執尽中です。

霞ヶ関に常駐して

その叔父に連れられて、22歳の昭和6年に霞ヶ関に入会して、アリソンの助手である米国人ペングレースに現場でコース作りを直接学ぶことになります。アリソンは昭和5年末から6年初めにかけて霞ヶ関を4回訪問して、コース改造の提案書を作成し、ペングレースはその改造工事を監督していました。叔父の達四郎は病弱な誠一を鍛えるために、霞ヶ関の創設者の1人で初期のコース設計も担当した藤田欽哉に頼み、入会したての井上を西コース建設と東コース改造の現場助手として起用してもらいました。井上は結婚後に新居を霞ヶ関の西コース13番グリーンサイドに構え、霞ヶ関の常駐会員になりました。

霞ヶ関を訪問したアリソン(右から2人目)、左から2人目がペングレース
若き日の井上誠一(右端、霞ヶ関の事務所で)
同じく(中段右から2人目、霞ヶ関の合宿所前で)

ゴルフプレーヤーとしての井上

井上はゴルフ場造りの現場の勉強だけでなく、ゴルフの技術向上にも興味を持つことになります。Fairway誌によれば、井上は昭和6年8月に最初のハンディキャップ24を取得して、翌年の昭和7年3月には21で月例会に優勝しました。同年の7月には16になっていますので、ゴルフの上達ぶりは目を見張るものがあります。さらに、常駐の強みを生かして昭和8年にはハンディキャップが12から10に、翌年の昭和9年には8でクラブ選手権(マッチプレー)の決勝まで進んでいるのです。ハンディキャップは昭和11年に最高7にまでなり、多くの競技にも参加していることからゴルフの実力が短期間に向上したことが察せられます。

倶楽部選手権で準優勝 
朝香宮のご来場時(右端)

霞ヶ関の保全部長として

また、英語が達者な井上は、当時日本には少なかった英文のゴルフ関係の技術書を丸善で手に入れて独学で勉強をしています。その技術書の一部の引用なのでしょうか、Fairway誌に井上が寄稿した記事をご紹介します。題名は「Horton Smithのグリーン観」です。グリーンがどのような状態であれば良いか、具体的な事例を挙げて事細かに述べています。
(注:Horton Smithはアメリカのプロゴルファーで、パットの名手として知られていた。本寄稿の翌年の1934年に創設されたマスターズトーナメントの第1回優勝者でもある。)

【Fairway誌1933年4月号から引用、Horton Smith のグリーン観、井上誠一】

[アメリカの若き名Golfer, Holton Smithは彼の深い経験を以ってGolf Courseの整備及Green Keeperの心得について自信を以って公平な立場から次の様な事を述べてゐる]

余はGreen Keeper諸氏の貢献に対して敬意を表すものである。余にとって充分に楽しめるGolf Course と云ふ事は非常に重大な事である。幸にして立派な正しいCourseの維持法が現に余のPlayせし各所数多のCourseに行はれてゐるのを見る。

先づGreenについて述べるならば、普通の大きさのGreenではあまり軟くないのがよい。数多のCourseは多量の撒水の結果非常に軟かで其のためにGreenにBallを止めるのに些かの熟練をも必要としない。

故に斯様なGreenは理想的なPutting Conditionにあるとは云へないのである。余がかつてPlayした幾多の斯様なGreenではMashie やIron のHalf-topped BallすらGreenに落ちて転がらない。此の事は正しい方向からGreenに打つ者も又Rough其の他脇道よりGreenに向つて打つ者にも同様な結果になるのである。故に撒水に際してはHoleの位置. GreenやBunkerの大きさ等を考慮に入れてなさねばならぬ。即ち一概に云へば小さいGreenやBunker囲まれたGreenは、大きいGreenや入口の開いたGreen よりも軟かであって良い。つまり芝の密生した中庸の軟かさのGreenを好むのである。あまり軟かすぎてPitch した球が芝草を飛ばして其処に一吋半もの穴を作る様なGreen は非難するに値するのであるが勿論打たれた球の味を示すだけの軟さはなくてはならないのである。私の經驗によればGreenは種子播のものの方がよい様に思ふ。軟さもよく又あとから増へて来る葉も直立して生へてゐる芝生の方がモシャモシヤして生へてゐる芝生よりは数等優れてゐるのである。(註、種子播云々と云ふのは米國等に於てはStolonと称してCreeping Bent等の匍匐茎を採って是よりも芝生を作る故)

Greenは球の速力の速い方が面白い。即ち其のためにより以上の熟練さを必要とし且つ興味あるPutting Touchを感ずるからであるが、さりとて球自身の速度に加速度がつく程滑るのは嫌である。早いGreenは興味あるも、滑り過ぎるGreenは公平なPuttingの試練とはならないのである。急なSlopeのあるGreenは稍長目に芝を刈るのがよい。勿論是はSlopeの強さによって長さを決めねばならぬ。尚Playの上から云っては総てのGreenが同一種の芝草で作られてゐても又中に違った種類のものが交って用ひられてあってもGreenの調子さへ良ければ其の間に相違はないと自分は思ふ。即ち余は全部のGreenの球の速度を統一する必要はないと考へるし又特にSlopeについては先に述べた様に常に熟慮する次第である。

このように、井上は霞ヶ関に入会してから数年の短期間に、ゴルフコースの技術、理論、設計に関する知識を学び、ゴルフ場造成の実地体験をしています。そして昭和12年には、会員でありながら、井上は霞ヶ関のコース管理を任される保全部長に就任していますが、その前年の昭和11年の2・26事件の冬に大雪に見舞われて、東コースのグリーンは殆ど枯死の状態になり、グリーンキーピングに任ずる井上は心痛のあまり神経衰弱に陥ったと記録に残されています。

当初のコース管理には悩まされて苦労が多かったようであり、保全部長としての苦労をうかがわせる文章も会報に残されています。

【Fairway誌1937年7・8月号から引用、給水とベント試案、井上誠一】

長らくPlayに御迷惑を煩した給水設備の方は巳にCourse内の配管工事を終了致し目下ポンプ室,變電室,貯水槽等の工事を鋭意進めて居りますので豫定通り七月中旬には工事は終了致し直ちに試運轉通水を致して今夏は充分撒水出来る事と思ひます。此の水は鑿泉より汲み上げた浄水で先般東京市衛生試驗所の水質検査の結果飲用水として合格した美味しい水で倶楽部ハウスの用水はもとよりCourse内にも各所に水呑み栓を設けて充分に喉を濕す事が出来る様になりますが最初の中は鐵管内面のコールター塗料の臭ひが混じるため一ヶ月位は飲用に適しませんのが如何にも残念であります。尚申添へますが、水源の鑿泉は揚水試驗の結果一晝夜約一萬八百石程汲めますので當方の必要量の三倍程に相当致しますから其の點の心配は御座いません。

目下Course内各所に土管を半分位竪埋めにしてあるのは撒水栓でありまして近日中にConcreteの筒を埋め鐵の蓋をして體裁の良いものになります。尤も此等はGreenやTeeの附近にありますので球が之等に接してPlayを妨げる場合も往々あることと思ひますが此の場合は規則に従って2Club Lengthの範囲内でHoleに近づかないやうにDropして頂く譯であります。

次に今年二千圓の範囲内で新東三番、五番、十八番の第二Greenを新設致すこととなりまして工を起し巴に三番は略々完成、十八番を目下進めて居り、引續き五番を致す手順になつて居ります。そしてBent Grassの種子を九月初旬に播きますが将来の試驗ともなる様に此の三つのGreenに各々異なった基礎工事を施して見る事となりました。来年夏を過して果してどれかがうまく成功すれば大いなる収穫と申す可きでありませう。

霞ヶ關として目下一番困って居る問題はBentの事もありますが差當って何とか處理せねばならぬのは「ちどめぐさ」と云う雑草の除去であります。御承知の様に之に就ては先年来色々苦心して薬品による除去方法を試みましたが成功せず益々猛威を逞しうして居りますので薬品其の他の方法を研究中ではありますが今年は出来るだけ芝の張替をやつて退治して居ります。若し之を放置して置きますれば數年後には芝は負かされてしまひませう。
適當な方法或は薬品御氣付のものがありましたら御教示頂き度いと存じます。
(六月末記)

井上の人となり

井上の仕事や普段の生活においては、その緻密さについての記載が多く残っています。昭和29年まで、霞ヶ関のコース復旧や那須ゴルフ倶楽部、大洗ゴルフ場など、井上と約5年間現場で仕事をともにした藤田晴之(藤田欽哉のご子息)が「井上誠一の思い出」としての話をFairway誌に寄稿しています。

ともに井上誠一と藤田晴之(左:宿にて、右:大洗ゴルフ場用地にて)
【Fairway誌1982年2月号から引用、井上誠ーさんの思い出、藤田晴之】

大洗ゴルフ場建設の最盛期(昭和27年頃)のある日、いつもながら早朝現場に精力的な姿を見せた友末社長(当時茨城県知事,現大洗GC理事長)は開口一番「藤田君! 井上君はまだ来ないのかね?」 と工事主任だった私に声を掛けられた。そして間もなくして来た井上さんに「おはよう! 君はもっと早く来られないかね」と友末さんは不満げに問いかけられた。ちょっと間を置いた井上さんは、真剣な顔でじっと友末さんを見つめながら「知事さん、貴方は私に早起きさせたいのですか? 良い仕事をさせたいのですか? 私は大洗の地形、松林の面白さに惚れ込んで、毎日、誠心誠意仕事に打ち込んでいます。この上早起きを望まれますか…… 」。 30年経った今でもこのときの会話が私の耳に残っている。

事実、井上さんは当時宵っ張りの朝寝坊、私は逆に早起きの方だった。毎日,暗くなるまで現場に勤め、宿舎に引き揚げ夕食が済むのももどかしげに地形図を拡げて睨めっこ。次の段取りの打ち合わせ、詳細設計に使う地形測量の打ち合わせなど、夜は夜で内業が忙しく「この辺を中心にこの範囲を1米の等高線を入れて300分の1で平板をとって慾しい。」「今やっている16番のグリーンの後の線が気に入らない。太平洋に向って打ちおろすショートホールだから、もっと大きくゆったりしたウェ一ブの線を出し、雄大さに合ったアクセントが欲しい」とか、施工中の変更などについて夜遅くまでこまごまと打ち合わせをして私を先に寝かせ、井上さんはそれから製図板に向い「毎夜よく体がもつなあ」と思うほど1 時~2 時頃までは普通、気がのれば明け方まで夜業を続けておられた。

図面を渡されると私の仕事となり→現地に木杭を打ち丁張を掛ける→土工事を進める→粗仕上げをし形を整えていき設計者のイメージを図りながら造形→良いとなればグリーンサーフェイスを掘り起こし,基盤土壌を所定の深さまで入替える→最終仕上げをする→細部の造形をまとめる→施肥→芝付けし完了となる。最終仕上げの時は真剣勝負そのもので「このマウンドの右側の斜面をもう少し強くし,左側の法足を長くひく」「裏側の斜面に肉をつけて丸味を出す」。曲面の移し方、つなぎ、変化のとり方、全体のバランスをとりながら、小さな点まで、見る位置を変えて見直していく。全く根気抜群の仕事の虫だった。

霞ヶ関の工事の時にいわれたことを思い出す。「晴さん普通の庭と違って、ゴルフ場は人が庭の中を歩き廻るから正面から見ただけではだめ、裏から見ても表から見ても造形的にまとめなければいけない」「右の森のボリュームが大きいから、左のバンカーの脇の山はもっと大きくしないとバランスがとれない。あと2米位高くした方が良い」とか、何時も井上さんは自分自身が納得するまで歩き廻り、仲々芝付けOKの許可を出さなかった。私は昭和25、26年と霞ヶ関東コース9ホールズの復旧、改造工事(現4、 5、12、14、15番の復旧、6、7、8、13番の改造)の現場監督に従事、設計監督に就いて井上さんの教えを受けた。当時の霞ヶ関は建設資金も乏しく芝生の購入資金がなかったので、少人数の労務者を雇用して現場に残っている僅かな芝を採集し(戦時中、飛行場用に大部分調達されていた)、播き芝をして芝生の育成から着手した。従って工事工程は長期体制をとっていた関係もあって、平行して着手した土木工事・新設の4ホールのグリーンの築造、戦前の形に復元する5ホールのグリーン、クロスバンカーの移設工事などの造形工事の仕上げには、井上さんは気が済むまで入念に行い完成させることができたものである。

くつろぐ姿

また、井上の長女の井上瑛子は、家の中でも鉛筆を置く位置がちょっとでも変わると「誰だ!これを動かしたのは!」なんて怒ると述べています。井上の残した設計図はその緻密さに溢れています。また、日本ではゴルフ場の設計図という概念がない時代から、アリソンに習った設計図は芸術的な要素に溢れていますので、霞ヶ関に残された設計図を参照下さい。

井上誠一の設計図面(西11番グリーン)
 井上誠一の設計図面(西14番グリーン)

アリソンと井上

藤田欽哉

1955年発行の霞ヶ関の25年史に、当時は霞ヶ関の顧問であった藤田欽哉が「東西両コース誕生記」の中で次のようにアリソンと井上誠一のことについて記載しています。

【霞ヶ関25年史から引用、東西両コース誕生記、藤田欽哉】

アリソン氏の来朝とその指導が当時どの位吾々建設委員に知識を与え、目を開かしめ、役に立ったか想像も及ばない。特に私に取り、この点、苦心の体験に訴えるものあり感銘深いものがあった。従来の疑義を解き、一種の自信を与えてくれた。当時若かりし井上誠一君は、霞ヶ関常住の会員として入会し、東コースの改造と西コースの新設誕生につき、現場監督の立場で、アリソン案の妙諦を吸収しつつ参与することになった。而も完全に助産婦の役を果たしてくれた。夫れ以来、十数年間、太平洋戦争まで、君は、霞ヶ関に在住して、初代支配人故小宮小四郎君および二代支配人牛島正巳君と共に、ゴルフ場現場の主として、東西両コースの状態を、常に完璧に整備怠らなかった。君の功績を末永く忘れてはならない。又戦後は、西コースの約半分は、農地法の適用により、収用せられ、一時倶楽部は東西二十七ホールス状態に置かれたが、野戸池を中心とする地帯の土地を買収して、9ホールスを新設し、新旧合せて18ホールの西コースの設計は、井上君の苦心の作であって其の功労を多とする。

初期の霞ヶ関と共に成長し、多くを学び、戦後のゴルフ場設計史に大きな足跡を残した井上誠一は多くのゴルフ場に関わりましたが、その原点はアリソンとの出会い、そして霞ヶ関での経験にありました。

最後に、井上の代表作の一つと言われています霞ヶ関西コースが完成した時に井上がFairway誌に寄稿した設計に際しての考え方をご紹介して、本稿を終えたいと思います。

新西コース工事中の井上誠一(中央) 
新西コース(13番)
【Fairway1954年新秋号から引用、新西コース設計の構想、井上誠一】

戦前の西18ホールスは用地が細長く奥へ延びていたため、9,9で倶楽部ハウスに歸ることが出来なかったが、此の度の計畫では野戸地周邊の比較的倶楽部ハウスに近い地域を取入れ、東コースほど便利ではないが、西コースも兎も角9,9で倶楽部ハウスに歸れる形にするのが設計上第一の條件であった。其のためには倶楽部ハウスとの關係上、現在の西1番はそのまま1番とし、現9番を18番に改め、新9番グリーン及び新10番ティーを新規取入用地内の倶楽部ハウスに最も近い旧山荘附近に設置することが最も望ましい配置案で、之を設計の基本條件とした。此の條件を充たすにはアウトの何番かから新用地内に入って9番を終え績いて10番からスタートし、インの何番かから現コースの何番かに戻る譯であるが、現コースの方を一時閉鎖して此の方も大改造工事を行うことは困難なので、現コースには成可く手をつけない方針のもとに配置計畫をたてると、下記の3の場合が考えられる。

1. 現6番を終え7番以下新コースに入り、現7番を新15番とし戦前の16番池越ショートホールを復活して16番とする案。
2. 前記池越ショートホールをロングホールに改造し、之を8番として新コースに入り、現8番を一部改造して17番とする案。
3. 現8番を終え9番以下新コースに入り、現9番を18番にする案。

そして結局第1案を採用することとなった。

・・・變化に富んだ地形・・.・

今度新たに取入れた用地は,其の地形が従来の霞ヶ關に見られない變化に富んだ美しいもので,それを生かすには是非此處には斯う云うホールを取りたいと限定して配置計畫を立てねばならない上に,野戸池を中心とする池水は配置計畫を甚しく制約するため,前記3 案の採択には非常な苦労をしたのであるが,各ホールの地形及び環境,インとアウトのヤーデージの釣合い,グリーンより次のティーへの連絡等を勘案して,第1案が断然優れていると確信し,之を採用することに建設委員會の決議を願った次第である。私として本計畫のレイアウトは上記の様な理由から,何処の新設コースのレイアウトよりも苦労したのであるが,幸い満足し得る案を得たので自信も出来,強引に其の線に副つての用地調達を要請したため,建設委員各位に於かれては,極度に難色の濃かった用地買収問題に貴重な時聞を割いて直接取組まれ,飽くまで所期の計畫を少しも枉げることなく,予定の全地域を確保せられたことは,ただただ感激に堪えぬ次第で,之で倶楽部100年の計の根本が確立された譯で,誠に御同慶の至りである。

・・・用地、設計の長所短所・・・

今回取入れた用地に就て、又私の設計に就て全般的な長所及短所を述べれば、先ず長所として

1.現東西コースが割合平担なのに比べて、今度の用地はゴルフコースとして理想的な高低の變化を持っている部分が多いこと。
2.野戸池を中心とする一連の池水に恵まれているため、關東のコースとしては随一のウォーターホールに富んだコースとなること。
3.組距離を6,600碼程度に止め、むしろ余裕を充分取って、各ホールの獨立性を尊重しホールを夫々分離したので、隣りのホールに打込むような危険性が少ないこと。同時にアウトオブバウンズも殆んどないこと。
4.グリーン周邊にも出来るだけ面積の余裕を与え、ウィンターグリーンも本グリーンに劣らぬ程度の立派なものに仕上げ、夫々の調立性を重んじ、また日当りの点等も考慮に置いて配置計畫を樹てた。
5. グリーンやグリーン周囲のバンカー等の形は極く穏やかな線を用い、バンカーもあまり深くないフォールアウェータイプのものとしたので、バンカーの中でいくつ打っても出ないでギブアップするような悲劇も起らないで済むと思う。尤も、その半面多少迫力に缺ける点があるかも知れない。叉、グリーンの面積も割合廣くし且つ緩やかなアンデュレーショシを輿えた。

エプロンも充分廣く、合理的に取った。

次に短所と思われる点を挙げると

1.新コース地域は大部分が樹林を伐採した跡であるため樹林が少ないこと。然し場内には特に立派な大木も残っている。設計に當つては極力樹木を切り倒さぬ方針で進めたため、ホールに依つては樹木のためにショットが非常に制約されている個所もある。
2.グリーンから次のティーへの渡りを本グリーン豫備グリーンの雙方から共々工合良く配置することに勉めたが、そのためにグリーンの手前でプレーヤーにパターを渡し終えたキャディーはグリーンの縁を歩くのを避けるため、少し廻り道をして次のティーへ行って貰わねばならぬ個所があること。
3.野戸池下流の泥湿地の埋立工事は、従来の霞ヶ關では前例のなかった程の莫大な費用をかけて、大量の土を動かして埋立を行ったが、それでも地表の勾配が緩いので、大雨後の芝生面の乾きが遅れる惧れのあること。
4.地形及び池の位置の關係上ウォーターホールがインに偏在したこと。之は勿論アウト、インに分散させたかったが、その方法が得られなかったこと。

・・・各ホール設計上の要旨・・・

次に個々のホールに就て設計上の要旨を申述べますと

No.6  550碼 パー5(現6番を改造)

総距離の關係上ティーを5番ウインターグリーン後方迄後退させで従来より30碼程長いパー5のホールとした。550碼ではあるが250碼以上の正確なティーショットに対してはオンのチャンスを與えてある。アヴェレージゴルファーはティショットの位置に応じてセカンドショッ卜以下の運び方を選べば3オンはさして困難ではない。

No.7  230碼 パー3

稍打下しの落ついたショートホール。好ましいアシデュレーションをもつ。此のホールはホール自體も捨て難い環境にあるが、此の場所にショートホールを置くことに依って、コース全體のレイアウトが非常に工合良く纏まり、他のホールの價値をも高めることが出来た。 兩グリーンの間のバンカーとウインターグリーンとの間に松の樹が數本形を整える意味で残してある。ウインターグリーン使用の場合スタイミーになるので、奥の方の3~4本は取除くべきと思うが、實際のプレーの結果に依って處理する考えである。ウインターグリーン後方は用地に餘裕がないため、大きくグリーンオーバーをするとアウトバウンドの恐れがある。

No.8  410碼 パー4

霞ヶ關には従来なかった感じのホールでアンデューレーショシに富む。正面左側の丘をハザー卜として強調し頂上にバンカーを置いた。此のホールも最初から此の位置に此の形で作りたかった處で出来上つての感じも悪くはないと思っている。

No.9 360碼 パー4

緩い丘越の短いホール,正確なピッチを必要とする。9番,10番の泥湿地埋立用の土を採取する必要上,フェヤウェー及グリーンで思いきり切土を行った。
此のグリーンを終えて倶楽部ハウスに歸る場合は入間川道路を渡って,現西9番グリーン(新18番グリーン)後方に出る。将来新しいクラブハウスを新築するとなれば、全體の配置の關係上、現在の西1番のティー寄りに建てられるであろうから、其の場合は更に便利になる。

No.10  415碼 パー4

9番のグリーンを終え、引續いてインを廻るときは直ぐ西側の10番に行く。10番のティーには四阿屋を置いて簡単な食事位出来るようにする計畫である。
10番からスター卜しても成可く氣易に最初のホールを打てるよう特にのんびりと作った。

No.11  210碼 パー3

全くフラットなショートホール。樹木も小さく平凡である。

No.12  390碼 パー4

野戸池の東南端を廻って右へドッグレッグのウォーターホール。問題の多いホールであろう。フェヤウェーも傾斜面多く,叉その殆ど中央200碼及240碼に松の大木があり,右角に池が喰い込み池の縁にに中松2本がある。最初のティーショットから腕に應じた攻略計畫をたて、それに基いて打ちこなして行けば仲々面白いホールで、アヴェレージプレーヤーにとって5で行くことは困難ではない。 然し無計畫にチャンスを取って打って行くと、スコアーを崩すホールとなる。

No. 13  510碼 パー5

少くとも關東のコースには類例のないパー5のウォーターホールで此のホールも最初から意図していたものである。2 オンを狙うにはティーショッ卜及セカンドショットとも危険をおかして完全な球を打たねばならない。普通のプレーヤーはセカンドショットで溝池を越すか、或はセカンドショットでは之を避けて一應手前左側のフェヤウェーに逃げサードショットで構池越に狙うかであるが、之また大いに策戦を練って各ショット共決断を必要とするホールである。ー寸餘談になるが、野戸池をどう云う風にコースに取入れるかについては色々と迷った。若し、此庭に池越しのショートホールを取るならば、之又仲々面白いものも出来るであろうが、此の雄大な風致をショートホールで殺してしまう術もないし、それに16番と云う昔なじみの霞ヶ關名物のショートホールが後に控えている以上、ショートホールを2つともウォーターホールにするのは甚だ下策と云うことになる。13番はどうしても此の形に落付く可きである以上、他の諸條件から押されて12番が嫌でも應でも前述の様なホールにならざるを得なかったのである。

No.14  355ヤード パー4

殆んど平坦なホールではあるが,フェヤウエ一兩側を取巻く小松林も可憐で愛すべきホールと思う。ドライブアンドピッチ。グリーンに向って遠景をなす高萩村の畑や森の風致も従来の霞ヶ關にはなかった田園情緒を味わしてくれる。

No.15  545碼 パー5(現7番を改造)

之で現7番に戻るのであるが、パー4の現7番ティーを約165碼新用地内に後退せしめてパー5のロングホールとした。之又総距離の關係と14番グリーンとの關係上のためである。 旧ティー附近の松林を一部伐り拂ってフェヤウェーを貫通したが、此の部分は他のフェヤウエーに比して大分狭いので、更に左側を6~7 本除くようになるかも知れない。然し最近のゴルフの傾向としては250碼の球の左右の狂いを幅25碼位に劃っているような例もあるので15番と云うホール順から云っても、18ホールスの中1ホール位斯様なのがあっても差支えないと思う。

No.16  150碼 パー3

昔の位置に復旧した。但し本グリーンの方は以前排水が悪かったので、今度は1尺5寸程表土を客土して高くした。此のホールも左側の松林が成長して枝を張って来たためグリーンの部分が狭くなり、陽当りも悪いので、数本の松を取去った方が良い様に思うが、取敢えず枝下しを行う。
大體上記の様な構想で纏めた結果、新西コースは総距離約6,650碼となり、7,000碼級の東チャンピオンシップコースに對して、稍距離の短い易しいコースとして誕生する譯である。

―(29年5月)―

おわり

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