C.H.アリソンは1883年生まれの英国人ゴルフ場設計家で、日本ではアリソンバンカーの名でよく知られています。アリソンは1930年11月から約4ヶ月間日本に滞在し、その間に以下のコースの設計・改造を手がけました。
現存しない朝霞コースと藤沢をのぞき、いずれのコースも現在でも日本を代表する名コースと言われているほか、朝霞コースは東洋一のコースと当時称されていました。その朝霞コースが軍部の意向によりわずか8年間で姿を消したことは、日本のゴルフ界にとっての大きな損失でした。
またアリソンは、その後の日本を代表するゴルフ場設計家となった井上誠一と上田治に大きな影響を与えたことでも知られています。
まさに日本のゴルフ場設計の源流とも言える存在でした。
アリソンは1930年に東京ゴルフ倶楽部・朝霞コースの設計を依頼されて来日しました。
朝霞コースの現地視察をした際に、前年に創設メンバー5名の設計により完成した霞ヶ関を訪問したアリソンはコースを熱心に行きつ戻りつして視察し、コースの地形・風景・環境を激賞しつつ、バンカー・グリーンなどに改良の余地があることを指摘し、一部のホールの改造を申し出ました。
当時の霞ヶ関は西コースの建設をひかえていたため、東コース改造の資金的な余裕がありませんでしたが、無償でも改造を引き受けたいというアリソンの熱意に打たれた理事会はアリソンの申し出を受けて、東コース全ホールの改造提案を依頼して、謝礼金の支出を決定しました。
その後アリソンはコースを3回調査してから、宿泊していた帝国ホテルの便せん4ページにタイプされた改造提案書を霞ヶ関に送りました。(原本は今も霞ヶ関に保管されています)
この改造設計書に基づいて,アリソンの助手の米国人ジョージ・ぺングレースの監督指導のもとに改造工事が着手され、1933 年に完了しました。この時、改造工事に現場助手として参加したのが井上誠一で、井上はペングレースの指導を受けながら、アリソンの設計手法を学んだのです。
この改造により霞ヶ関の東コースは戦略性を高め、チャンピオンコースとしての評価を固めました。
改造が完了した1933年の秋には日本オープンゴルフ選手権を開催し、
その後は1957年のカナダカップ、1995年の日本オープン選手権など多くの熱戦の舞台となりました。
東10番の改造(左:改造前、右:改造後)