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東コース復旧に関する井上誠一の手記

1950(昭和25)年から1952(昭和27)年にかけて東コースの復旧工事が行われましたが、復旧工事を設計監理した井上誠一が工事の概要を霞ヶ関の会報に寄稿していますので、以下に全文をご紹介します。

東コースの復活

戦時中,コースとしての維持も行なわれないまま荒れるに任せ,また一部は耕作されて芋畑となっていた東コースのうち、1、2,3,9、10、11、16、17、18の各ホールは米軍の接収により、早くも昭和21年の秋には、西コースの仮9ホールと共に変則的な組合せではあったが,曲りなりにも18ホールの形を整え、米軍将兵のレクリエーションの場として大いに利用されていました。

しかし, 会員としては一日も早く残余の9ホールを復旧し, KCCとしてのクラブ・ライフを楽しみたいということが切実な念願であったことは、申すまでもないことでありました。

既に復旧した前記の9ホールは、樹林もほとんど戦前のまま残されていたし、また地表も大して荒らされていなかったので、大体戦前の姿どおりに復旧されましたが、残余のホールの大部分は惨めな有様になっていました。
特に残念であったのは、7番のショート・ホールの一帯で、戦前このホールは美しい松林にかこまれた穏やかなホールでしたが、この美林がほとんど全部伐り払われ、6番や8番との間などなんにもなくなって、広大な原っぱになってしまいました。また、14番も素晴らしい大松がそびえたって,あの長丁場にふさわしい雄大な調和を保っていたのがほとんど伐り倒され、15番まる見えという状態になってしまいました。

ところで,この9ホール復旧にあたって最も苦労したのは、なにしろ予算は極度に少ないし、工程は早ければ早いほど有り難いという情況下ですから、大掛りな工事は出来ません。工事に必要な機器類も皆接収されているので、頼りになるのは原始的な農具と人力だけです。当時早稲田の土木を卒業したばかりの藤田晴之君(現日本ヒューム管工場長)が工事を担当し、現グリーン・キーパーの塩川さんと協力して、このつらい仕事に取組んでくれました。
藤田君は、 7番ティー付近に建てた電灯もない堀立小屋の農具置場の中に、たたみを持ち込んで寝泊りし、早朝から日没まで汗みどろの働きをしてくれたことは、忘れ得ない思い出です。

ともかく、芝を張って球さえ打てればというのが、当時のみんなの望みでしたから、グリーンは別としてフェアウエーには手当りしだい、野芝でも構わず寄せ集め、バンカーの縁から垂れ下がった芝の根まで用いるという、 まことにお粗木な仕様によらざるを得なかったのです。

しかし、7番だけはどう考えても、そのまま復元するに忍びないホールになり果てていました。そのまま復元すれば、ちょうど霞ケ関の練習場のまん中に、平ったいグリーンのショート・ホールを置いたような気分のものになってしまいます。なんとかして、このだだっ広い原っぱを、コースらしい雰囲気のものに修整する必要に迫られ、このように高麗グリーンの場合とベント・グリーンの場合と交叉するような形とし,ホールの規模を広げ、かつベント・グリーンの周りには大きなマウンド群を配置して、だだっ広さを消し、変化づけることに意を注いで造形したしだいです。以来、樹木の植栽も年々行なわれ、また早くに植えた木は、すでにだいぶ大きくなりましたので、今ではあまり単調な感じは受けなくなりましたが、それでもまだ収まりきったホールとは言い難いようです。さきごろ、更に10数本の松を急所に植えましたので、今度はだいぶ引き締まった気分になったことと思います。

このようにして、戦後の復旧第一歩を踏み出した東コースも、その後クラブの隆盛とともに、年々フェアウエーの野芝及び雑草地域の張替え、植栽等を行ない、また昭和32年10月にカナダ・カップの開催コースとして選定された機会には、フェアウエー、パンカーの位置を近代ゴルフ向きに移設するなどの改良を重ねて、今日に至ったのであります。

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