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東西グリーンが受けた被害と
2グリーン化の決断

1.西コースのグリーン(ベント芝)が猛暑により被害

西コースは1932(昭和7)年に開場し、フェアウェイのコーライ芝育成は東コースに優り、我が国で初めての試みとしてグリーンに使用されたベント芝も見事に育成し、6月の開場式では賞賛を受けましたが、それから2ヶ月後の8月に連日の干天続きの酷暑に逢い急激にコンディションが悪化しました。

やむを得ず8月10日に一時閉鎖して、消毒・灌水などの応急手当を施しましたが、完全に回復したのは12月に入ってからでした。

翌1933(昭和8)年8月に各グリーンにクリーピングベントおよびブラウントップを増播しましたが、樹林に囲まれた西コースは通風が悪く、真夏の湿気が強く、水道設備を持たない浅井戸の灌水程度で夏場のベント芝の維持は困難であり、応急措置として各ホールにコーライ芝の第2グリーンを作り、夏は第2グリーンを使用し、冬期はベント芝の本グリーンを使用する方針を決定しました。(その後、コーライ芝の使用期間が長くなったため、1935(昭和10)年にメイングリーンをコーライ芝、第2グリーンをベント芝に変更されました)

2.東コースのグリーン(コーライ芝)が大雪により被害

1936(昭和11)年の1月27日に大雪が降り、これがコースの根雪となった上に2月3日に33センチ、2月23日に36センチの降雪があり、コースは50日以上凍結した状態が続き、全コースの芝に大被害を受けました。特に5番、6番、10番、17番のグリーンは枯死してしまったため、張り替えた上で復旧したのは7月末でした。

3.2グリーン化が合理的との結論

東コースはコーライ芝の1グリーンでしたが、緯度のわりに夏季は蒸し暑く、冬季は寒気の烈しい気候の地域であり、かつ多くのプレーヤーにより相当の過重酷使の状態となり、肝心な春季においてグリーンコンディションを悪化させること毎年繰り返されていたため、既に2グリーン化した西コースの経験をも踏まえて、東コースも永久的な2グリーンとして、一方をベントとすることが合理的であるとの結論に1937(昭和12)年に達しました。
暑さによるベント芝の被害と、寒さによるコーライ芝の枯れ死の両方を経験した上での判断でした。

本来のコース設計の立場からいえば1グリーンが理想ですが、当時の芝の品質や管理技術では日本の四季の寒暖の変化に適応するためには2グリーンを採用せざるを得なかったようであり、この2グリーン制が、その後の日本のゴルフコースにおける主流のグリーン形態となっていきます。

4.1グリーンへの回帰

現代の芝の品種改良とメンテナンス技術の改善により、日本でも1グリーンの維持が可能となったため、霞ヶ関は1998年に西コースを65年ぶりに1グリーン化しましたが、この時はメイングリーンを1993年にベント化してから5年間のテスト期間を経て、サブグリーンの撤去に踏み切りました。東コースは2016年に1グリーン化を実行しましたが、これは実に79年ぶりのことでした。
長年の2グリーン時代を経て、東西両コースが1グリーンに改造されたことで、コースの戦略性が大きく改善されました。

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