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第2コース(西コース)建設の英断

昭和5年に霞ヶ関カンツリー倶楽部は創業2年目の秋を迎え、幸いにして東コースの評判が良く日曜日は常に満員の盛況を呈し、新規入会希望者が多数いるにもかかわらず、入会者を絞らざるを得ない状況に至っていました。

この状態を踏まえて、發智庄平は、娘婿に当たる高萩村の大地主の大河原、塩川両家が、霞ヶ関が第2コース建設を希望するならば土地を提供することが可能であるという話しを昭和5年晩秋に藤田欽哉にしていました。

藤田は、東コース建設の経験からコース設計の要点も掴み、原生林にかこまれ、格好な地形、地主や地元の協力、労働力の関係などすべてにおいて好条件であると自信を持ち、2回目の視察の時にはコースレイアウトの腹案まで出来ていました。

立地面の条件は整ったものの、その頃の霞ヶ関は創立2年目で資金面の余裕が無く、資金確保のために新入会員を入会させようにも、東コースに収容余力がないことがネックとなっていました。また、会員の中にも第2コース建設は時期尚早であり、まずはクラブ経営の足元を固めることが先決であるとする慎重論も根強くあり、メンバー間での議論が繰り返されました。しかし、昭和6年1月になると第2コース建設を求めるメンバーの意見が日毎に強くなり、社債引受による建設資金提供を提案するグループも現れました。

この動きを踏まえ、理事会で徹底的に議論した上で第2コース建設に会員の総意を得るべく会員総会に諮ることとして、3月に会員総会を開催して、第2コース建設は満場一致で可決されました。建設資金は、メンバー向けに社債を発行して調達し、西コース完成後に新規会員を募集して、入会金で社債を償還する計画としました。

レイアウトは、当時キャプテンであった藤田欽哉の設計が担当し、工事委員長の清水揚之助との合議により、森林美とよく調和した設計が出来上がりました。また、当時入会したての井上誠一が現場監督として起用されました。

そして、当初は東コースと同様のコーライ芝とする予定であったグリーンを、日本のゴルフ界における新しい試みとして、クリーピングベント芝を播種し、コーライからベントに変更したために予定より半年程度遅れ、昭和7年の6月に開場となりました。

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