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東コースのレイアウトが決まるまで

昭和4年2月28日に交詢社で霞ヶ関カンツリー倶楽部のレイアウト合議会が開催され、出席は藤田欽哉、顧問の井上信、赤星四郎、立会の山本栄男、鹿島精一であり、各人が持ち寄った複数案を提出して種々協議を行いました。

その結果、1番から5番までは赤星四郎の提案の通り誰の異議もなく決まり、6番~9番は藤田欽哉案のコース方位がこれも採用されて、アウト9ホールはすんなり決定をみました。
インの9ホールをいかにレイアウトするかについて、一同が大いに頭を悩ませました。アウト9ホールが右より出て左方に廻って戻る「プル」のコースの取り方が決まった以上、インの9ホールは原則として、その逆の「スライス」の右方に廻って戻るレイアウトにしてはどうかというのが赤星四郎の提案でした。しかし、実地調査によると、赤星案では全体の地勢上からコース面積を増やさなければならず、立木を多数伐採して風致上の問題があること、日当たりの良いグリーンに適した立地に乏しく、またコース中唯一の池の利用価値が無くなるとの理由を藤田欽哉が述べました。

顧問の井上信が藤田案を支持したため、藤田案を中心に、更に実地調査を重ねた上で建設方針を決定することとなり、事実上この日が今日まで続いている東コースのレイアウトが決定される記念すべき日となりました。

その後の実地調査結果を踏まえたインコースのレイアウト案が協議され、赤星四郎の提案である10番の池越えホールをパー3とし、11番~13番の入れ替えを行うことで一同の賛同を得られ、後にアリソンバンカーを採用することにより日本を代表する名ホールとなる池越えの10番を含む東コースの基本レイアウトが決定されました。

また、このレイアウト決定の副産物として、当時のゴルフ場にはなかったコースから完全に独立した広い 練習場が生み出され、その頃の霞ケ関の誇りの一つとなりました。

この基本レイアウトに基き、各ホールの設計責任分担を次の通りに決めました。

井上 信
1番
2番
18番
赤星四郎
4番
9番
10番
11番
石井光次郎
3番
14番
15番
清水揚之助
5番
7番
12番
13番
藤田欽哉
6番
8番
16番
17番

※当時は設計図面を作成した記録がなく、藤田欽哉が作成した設計原図を参考にして、各設計担当者が各ホールの実地においてバンカーの配置、グリーンの形状などの具体的な工事内容を指示していたものと推測されます。

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